司法律法を無効化する人間は裁きを免れない


「司法などある領域に関しては神の言葉は通用しない。人間の自律理性でやるのがよい」

こんな考えがキリスト教として通用するのが今の「キリスト教」なのだ。

以前、福音派と言えば、聖書信仰であり、リベラルやバルトなどと対抗し、正統主義を貫いていると考えていたが、再建主義があらためて、正統的な律法観をかかげて福音派に問い掛けると、「ブルータスおまえもか」と言いたくなるような反撃にあう。

これは、どうしたことだろうか。原因は、

「福音派は、ディスペンセーショナリストによって占領された。」

ということにあった。

彼らが司法律法を無効化したがるのは、ディスペンセーショナリスト神学によって冒されたからである。

ディスペンセーショナリズムは、教会時代は恵みの時代であり、律法の時代ではないから、律法は通用しない、と説く異端の教えである。

読者はよくよく考えて欲しい。

イエス・キリストは、「律法を廃棄するために来たのではなく、成就するために来た」と言われ、パウロは「信仰は律法を確立する」と述べ、「御霊は、律法の要求を全うするために与えられた」と述べているのだ。

さて、この「律法」の中から「司法律法」を取り除いてもよいと書いてある箇所が聖書の中にあるだろうか。

そして、一部でも取り除くことが、「律法を確立する」ことにならず、むしろ、「破壊する」ことになるということになぜ気づかないのだろうか。

もしある会社において、社訓の中から一部を取り除いた社員を会社は「社訓に従うよい社員」と認めるだろうか。

「司法律法は今日無効である」と言う人間は、「律法の一点一画たりとも地に落ちることはない」という聖書の御言葉に反逆している。

これは、重大な罪である。異端の罪は、殺人よりも大きい。

それゆえ、裁きを免れることは絶対にない。

 

 

2007年8月24日

 

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