「敵さえも愛しなさい」の意味


<Q>
イエス・キリストは「敵さえも愛しなさい」と言いました

それなのに
「目には目を、歯には歯を」とやっていいのでしょうか?

<A>
刑法と個人の憎悪の問題を混同してはならないのです。

刑法は、社会を成立させる「正義」の問題です。

目には目というのは、復讐法ではなく、「同害刑法」といいます。つまり、刑罰はやった犯罪と同じ程度のものでなければならないということです。

目をやった人は、目かそれと同等の金銭的償いをしなければならないとモーセ律法にあります。

社会は、償いによって健全になります。たとえば、5000円被害を与えたら、5000円で弁償する。モーセ律法では、窃盗の場合さらに刑罰として何倍かにして返しますが。

このように刑罰を定めないと、犯罪を抑止できないだけではなく、社会に不条理感がまして社会不安の原因になります。

社会正義の基礎は、他人に対して害を加えた人はそれだけの賠償をするということです。


愛の問題とは、その被害を受けた人がどのような態度で加害者に接するかです。

モーセ律法は、被害者は加害者に対して憎悪を持って報いる権利があると述べているわけではありません。

「やられたらやり返せ」ということを教えているわけではない。

そのモーセ律法の真意をイエスは「敵を愛せ」という言葉で表したのです。


<Q>
いじめる相手に抵抗してもいいのでしょうか?

<A>
抵抗していじめることがどのような結果を招くか示すことは大切です。

<Q>
殺人者を許さずに殺してもいいのでしょうか?

<A>
殺人に対してモーセ律法では、「贖い金をとってはならない」と規定しています。つまり、故意の殺人者は必ず処刑されなければならない。

「いのちにはいのち」です。

<Q>
それともこの聖句も当時のローマ人たちに革命を何度もするユダヤ人に対して言ったことなのでしょうか?

<A>
その意味もあると思います。

<Q>
自分の考えは「目には目を」はやるけど、やっぱり愛を持ってやらないといけない。
という意味だと思います。律法は愛であるから愛を持たないで単なる仕返しではだめ。

そういうことだと思います。
つまり、敵を愛する=無抵抗  とはならないと思います

<A>
そうですね。

<Q>
また、自分に対して酷い仕打ちをしてきて、こちらが過ちを指摘しても決して一回でも謝ろうとしないクリスチャン(今は信じてませんが)がいます。
自分はあまりにも酷いので悔い改めるまでは相手を完全無視することにしました。
これは間違っているでしょうか?
実際に相手もこちらを無視するし、侮辱するし、もうあんまりもあんまりです。
いつもこちらを困難に陥れます。
「目には目を、歯には歯を」です。
謝ればその瞬間に許すつもりですが、誤りを指摘すると謝るどころか逆に怒ります。
これなら「目には目を、歯に歯を」でいいのではないでしょうか?

<A>
相手にこちらの不愉快を示すことは間違いではありません。

しかし、ある程度行って悔い改めない態度が見えたら、神にゆだねることです。
こちらが努力して「人間の力では直らない」と思ったら、ゆだねることです。
そして、むしろ相手のために祈り、そして、相手の利益になることをしてあげることです。
そうすれば、神はすみやかに相手を裁いてくださいます。

「善を持って悪に対しなさい。そうすれば、相手の頭に炭火をつむことになる」とあるとおりです。

<Q>
ここから別件です

NASBとは具体的にどのようなグループなのですか?
アメリカの聖書翻訳で一番重要な機関ですか?

<A>
NASBは文書の中に書いてありますが、翻訳の名前です。New American Standard Versionの略です。

 

 

2009年8月4日

 

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