契約をワンセットで考えよう
聖書において膝をかがめ、頭を垂れることは、契約の象徴的行為である。
礼拝には膝をかがめ、頭を垂れるという行為が含まれている。
御使いが預言者のもとに現れたときに、預言者がそれをすると、御使いは私は神ではないからやめなさい、とたしなめている。
膝をかがめ、頭を垂れるという行為は、相手を契約の主権者と認めるということを現している。
もちろん、契約の主権者と認めることは、契約の中の規定を遵守することを意味する。
だから、膝をかがめ、頭を垂れるという行為をしながら、契約規定を無視することは矛盾なのである。
契約はその内部の諸要素をすべて含む有機体である。
一つを失うことは、契約の死、つまり、追放を意味する。
だから、神は、聖書の中において「私は犠牲の動物を喜ばない」と言われたのだ。
いけにえを捧げて神を礼拝しても、契約規定を無視していれば、それは、契約の中にいないということと同義である。
だから、旧約聖書の預言者のメッセージの意味は、「契約の民は、契約の中、エデンの楽園にいつづけたいならば、契約の規定を守れ」だった。
ディスペンセーショナリズムが教会の中に入り、律法を無効化した。
いや、そのはるか前に、初代教会の時代の後、次第に異邦人が教会のトップの座を占めるようになるにつれて、ユダヤ人に属するものが軽視され、代わりにギリシア思想が入るにつれて、契約の概念が消え、律法を無視するようになった。
「律法は旧約の人々のためのもので我々のためではない」と言い出した。
しかし、主は一人、契約は一つ、掟も一つである。
律法は新約時代になって消えてしまったのではなく、バージョンアップされたのだ。
それは、世界の諸民族が守るために普遍化された。
かつて祭司はレビ族が占めていた。しかし、今はキリスト及びクリスチャンが祭司である。
しかし、あなたがたは、・・・王である祭司・・・です。(1ペテロ2・9)
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません・・・(ヘブル7・12)
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
2008年8月21日
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