ヒューマニズムには希望はまったくない
ドーイウェールトによると、ヒューマニズムには、人格的理想と科学的理想の2つの理想がある。この2つの理想は互いに矛盾しており、調和できない。
人格的理想とは、人間の自由を求める。様々な束縛から自由にされたいという理想。
科学的理想とは、この世界で起こるすべては科学的法則によって成立するとする。超越者、神の介入なしに、自律的に動いている世界を理想とする。
我々が霊の世界、奇跡について話すと、カルト呼ばわりされるのは、この科学的理想が原因である。
この科学的理想、つきつめて考えると、宿命論に陥る。
「すべては科学的法則によって起こるのだ。人間心理ですら、物質の活動にすぎない。宗教の出る幕はない。」と考えると、自分の人生に起こる様々な不条理、不幸、社会悪について「法則にしたがって起こっているのだからしかたがない」ということになる。
神仏に祈ることは、一つの思い込みであり、幻想であるわけだから、自分に危険が及んだ場合に、「神よ、助けてください!」と祈れない。
強者が弱者を圧迫しても、「弱肉強食」の進化の原理が働いているから、あきらめろということになる。
つまり、科学的理想を追求すると、夢も希望もなくなる。人間は、法則によってがんじがらめに束縛される。
科学的理想は、自由を消し、そのため、人格的理想と矛盾する。
つきつめて考えると、こういうことになり、実は、ヒューマニズムとは、絶望の宗教なのであるば、ヒューマニストはこの事実に目をつぶり、自分をごまかしている。
彼らは表面的にはクリスチャンを批判するが、実生活では、クリスチャンのような世界観を持って生きている。
人間はだれしも、クリスチャンの世界観を持たずには生きられない。
今のノンクリスチャンの政治家は、「政治に神など持ち出してはだめですよ。」といいながら、同時に、選挙事務所に神棚があり、選挙で勝てるよう祈願する。
唯物論的な宇宙論を展開している物理学者も、結婚式において牧師の祝福を求める。
徹底したヒューマニストなどこの世には存在しない。
ヒューマニズムは、思想として世界観として破産しているのだ。
首尾一貫した思想は、聖書的キリスト教以外にはない。
聖書的キリスト教は、科学と自由を両立させる唯一の思想である。
我々は、世界が科学的法則によって成立していることを認める。だから、科学を奨励する。
しかし、科学法則とは、絶対者で超越者である神の下にあり、神の統治の道具であると考えるから、それに縛られることはない。
神と科学法則の関係とは、発電所の装置と操作員との関係に似ている。
普段は、自動運転に任せている。しかし、何かトラブルがあると手動に切り替える。
神は、世界を法則にゆだねておられる。しかし、必要な場合に、それを超越して働かれる。
重力の作用をストップして、エノクを昇天させた。
エゼキエルやイエスを空中移動させた。
死の法則をストップして死者を蘇生させた。
水をぶどう酒に一瞬で変化させた。
我々の希望は、神の「超越性」にある。
常識で考えれば、社会的弱者が強者に勝つことは不可能だ。
しかし、神の働きがあれば、逆転がありえる。
強者であっても、傲慢になり、神の法を破れば、裁かれて、破滅してしまう。
我々は祈りによって、科学の法則を突破できる。
超越者が祈りにこたえて働かれ、強者を打ち砕いてくださる。
ヒューマニズムには希望はまったくない。
首尾一貫した考え方をしたいなら、すべての人は、聖書的クリスチャンになるべきだ。
2009年11月12日
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