アルミニウス主義とカルヴァン主義


アルミニウス主義は、人間の側の力を半分認めて、「救われるには、人間の側の努力も半分必要だ」という考えです。

しかし、聖書では、一貫して人間は、予定されているかどうかで決まると述べています。

すべて、神の側の一方的な働きかけによって人間は救われるかどうか決まる。


「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9・16)

一番よいたとえは、次のようなものです。

アルミニウス主義は、人間を瀕死の状態で海でおぼれて助けを求めている人と描く。叫び求めているので、浮き輪が投げられるとそれにしがみつく。

つまり、人間の側の協力がなければ、神は人間を救えない。

カルヴァン主義は、人間を完全な死人として描く。叫び求めることすらできない。彼はおぼれて10000mの海底に沈んでいる。しかも、心臓をサメに食われていてまったく命がない。

神は、彼を救うために、まず心臓を創造され、すべての傷を修復され、体に命を吹き込まれる。

そして、海上に浮上させ、自分が助からねばならないことを意識させ、救助を求めるようにする。

そこに浮き輪が投げられ、しがみついて救われると。

我々が罪を意識して、そこから救われることを強く求めるようになるには、まず神からの働きかけがあり、一方的に選びがなければ何も起きない。

なぜ神がこのような方法で人を救われるかというと、栄光を人間に与えないためです。

「俺が求めなければ神も救えなかった」と言わせないためです。

聖書の主張は徹底して神中心であり、人間は神の栄光を現すために創造されたもの、被造物にすぎない。

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。 」(ローマ9・21)

神は人間の傲慢が大嫌いです。

自分を大きくして、神を小さく描くすべての試みをのろわれる。

「心が貧困な人は幸いです」とイエスは言われました。

心が貧困とは、「心において誇るもの、頼るべきもの」がまったく存在しない人。

人間はいろいろなものに頼ります。才能、金銭、地位、名誉などです。

そういう人間的に頼れるものをいっさい剥ぎ取られた人こそが幸いである。

そういう人は神だけを頼る。

クリスチャンとは、そのような人です。

だから、アルミニウス主義は、傲慢な宗教であり、厳密に言えばキリスト教ではありません。

キリスト教の名を借りた異教にすぎません。

 

 

2010年3月27日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp