聖書以外の教えでもって人を教会から追い出すのは違法である
以前、「tomiさんは、夢で主のお告げを受けたという人を受け入れますか。」と尋ねられたので、「そういう場合もあるかもしれませんね。」と答えた。
すると、そんなのは間違っているとの反応が。それで、どこが間違っていますか、と聞いたが答えはなかった。
ないだろう。当然だ。聖書に何も書いてないから。
「夢に神が現れることは一切ない」と書いてないから。
むしろ、夢や幻を通じて多くの聖徒たちが御心を啓示されたと聖書にある。
ヤコブしかり、ヨセフしかり、イザヤしかり、ペテロしかり、ヨハネしかり。
「いや、tomiさん、それは聖書の時代の話でしょう?今の時代はそんなことは起きないから」というか。
じゃあ、「聖書の時代にはあったが、今日にはそういうことはないということを証明する箇所はどこですか」と尋ねるとまた逃げてしまう。
聖書啓示が完結した現代では、そのような啓示の方法はまったくないということを示した箇所はどこですか?
実際、カルヴァンやスポルジョンすらそんなことは言っていない。
スポルジョンは、クリスチャンは幻などで神の御心を知ると断言している。
「ああ、スポルジョンも異端だったのか!」というか?
どっちが異端だね。
聖書に何も述べていないことを言うあなたが異端だ。
傲慢とは、聖書を越えること。聖書を越えるとは、上でも下でもだめ。
つまり、言い過ぎもだめ、言わな過ぎもだめ。
聖書が禁止していることを禁止しないことがだめなのと同じくらい、聖書が禁止していないことを禁止するのも間違い。
基準が聖書にない禁欲は、自己満足であり、パリサイ主義。
イエスの弟子は、食事の前に手を洗わなかった。これはパリサイ人にとって気にくわなかった。
自分で勝手に作った決まりを大事にして、守らない人間を裁いていく、こういうのをパリサイ主義という。
「うちの教派はこういう教えなので・・・」
その教派の教えが聖書的ならよい。聖書的でない教えをもって仲間の人間と仲間でない人間を区別とするのは違法である。
それは、人間王国の建設である。
そのような教派や教会はつぶれたほうがよい。
もう一度言う。
そのような教派や教会はつぶれたほうがよい。
2008年7月1日
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