クリスチャンは死刑反対論を奉じてはならない


クリスチャンは、死刑に反対してはならない。

なぜならば、死刑が不要、もしくは、悪いことであると考えるならば、キリストの刑死に意味がなくなってしまうからである。

死刑反対とは、すなわち、「この世に死罪、つまり、死に値する罪は存在しない」と主張することと同値である。

もしこの世に死に値する罪が存在しなければ、キリストが死ぬ意味がなくなる。

キリストは、死に値する罪が存在するので、我々の身代わりに死なれた。

神は、「罪の報酬は死である」と言われる。神が「死に値する罪は存在する」と聖書において言われる。

そして、その報酬をキリストが身代わりに負ってくださった。

だから、キリストの処刑が必要だと考えるクリスチャンは、絶対に死刑制度に反対してはならない。

このように言うと「キリストの処刑が身代わりの処刑であったならば、キリストを信じたクリスチャンは殺人を犯しても処刑されなくて済むのか」と問うかもしれない。

違う。

まず罪の種類を区別しなければならない。

罪には2種類ある。(1)神に対する罪、(2)人に対する罪

神に対する罪はキリストを信じることによって赦される。しかし、人に対する罪については、相手に損害賠償をしなければならない。

だから、殺人者がキリストを信じて生まれ変わった場合に、彼は神との和解を得るので、第2の死(つまり、永遠の刑罰)をまぬかれる。

しかし、対人的、対社会的な償いはまだ残っている。

死刑は、この対人的・対社会的な償いとして必要である。

旧約律法において、対人的罪に関して、通常の罪の場合、贖いの金が適用できた。


もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。(出エジプト記21・30)

だから、たとえば、被害者を傷つけた場合に、その傷害に値する賠償金を支払う責任を負った。(被害者の希望により傷害を加えることも許された。だから、目を傷つけられた場合には、相手の目を傷つけることもできた。また、被害者の希望により贖いを一切要求されない可能性もあった。)

しかし、故意の殺人罪については、犠牲が適用されなかった。

あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。(民数記35・31)

殺人罪は特別な罪であり、処刑以外にいかなる刑罰も適用されてはならなかった。

だから、たとえ殺人者がクリスチャンになったとしても、死刑以外の刑罰はありえない。

聖書にしたがって厳密に考える場合に、死刑制度の存続は絶対に必要であり、クリスチャンは、死刑反対論を奉じてはならない。

 

 

2009年1月29日

 

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