非6日創造説によってクリスチャンは力を奪われている2
WindowsなどのパソコンのOS(オペレーション・システム)は、人間が作ったものである。
だから、人間はそれに縛られない。OSは道具であって、我々はOSから超越している。我々が外出したり、食事するなどの日常生活はパソコン内のシステムとは無関係である。パソコン内の仮想のキャラクターはそのOSに支配されるが、我々は支配されない。
OSに都合が悪い部分があれば、それを再プログラミングしてバージョンアップできる。
それと同じように、神は時間と空間というOSを創造された。だから、時間と空間にとらわれない。
神の創造は完全であったからバージョンアップというのはないが、時間と空間内において起こることを自由自在にコントロールし、時にはこのOSで行えないようなイレギュラーを行われる。
たとえば、エノクやエゼキエルのように人間を宙に浮かせたり、何年も先のことを予言したり。
奇蹟を否定するクリスチャンは、神を「自分が作ったOSによって、パソコン外で行う日常生活を拘束されているプログラマー」と見ているのである。
非6日創造説は、ことごとくこのような誤謬から生まれた。
「あんな複雑な生物のシステムは一日でできるはずがない」と。
神は時空を超越しているので、創造に時間はかからないのである。
「超越者」とは、被造世界の秩序から超越しているということだ。
イエスは、水を一瞬にぶどう酒に変えるという奇蹟を行われた。
ふつう、水がぶどう酒に変わるには時間がかかる。ぶどうの木が水を吸収して、それを利用して果実をつくり、人間がそれを収穫して、発酵させる。
神は、こういう過程を全部省略することがおできになる。
神を我々の常識の範囲内に押し込めることは罪である。
創造が六日で行われたということは、「六日かかった」ということを意味しているのではなく、「瞬間創造」を意味している。
神は創造に六日を必要としない。一瞬ですべて行える。
なぜ六日かけたかというと、人間の模範とするためだ。
人間が六日働いて価値を創造する労働の模範として、一瞬でできるものを、六日かけて行われたのだ。
だから、六日を何億年というタイムスケールと解釈することは、神の模範を無意味とすることであり、聖書の改ざんに等しい罪である。
「じゃあ、科学的証拠はどうなるのですか?」と聞くだろうか。
無視しなさい。
宇宙や地球を億年のスケールと考えるように仕向けている人々がいるのだ。
それが「科学的真理」かはなはだ疑わしい。
科学とは、あるパラダイムにどうしてもとらわれる。今の科学者のパラダイムは、無神論である。(いや、宗教とは無縁であり、無神論を前提としているわけではないと彼らは言うが、実質的な内容は無神論である)
今の科学者は、無神論的な思考から離れることができない。離れることは、学界における職業的死を意味するから、彼らは、意識的もしくは無意識に、得られたデータをそのパラダイムを裏打ちするものとして提供する。
だから、我々はこのようなパラダイムで作られた議論を鵜呑みにしてはならないのだ。
学説はすべて聖書によってチェックすること。それが我々に課せられた義務である。
聖書を前提とし、それに反する学説をはじくこと。
聖書に対する絶対服従の姿勢を崩さないこと。
これだけがキリスト教の生き残る道である。
妄信だとか言われてもどうでもいい。
我々は御言葉を絶対の土台として受け入れるべきだ。
2009年2月11日
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