時空を超越した世界があることを悟るべきだ
高校1年生のときに、課外活動である武道のクラブに入った。
練習前に道場の掃除をしていると、突然警報ベルが鳴って、1枚の内窓(北海道の窓は二重窓になっている)が、ひとりでにゆっくりと倒れて、ガシャーンと割れ、ガラスの破片があたり一面に飛び散った。
なぜ倒れたのか分からない。下級生の部員たちは、気味悪がって、「縁起が悪い。おまえ明日死ぬぞ!」「いや、おまえだ!」と冗談を飛ばし合っていた。
部室の掃除から何から率先して模範を示し、部員から尊敬されていた3年生の部長のIさんが、突然「気分が悪いから、帰宅する」と言い出した。
いつもは「おっす!」と言うのだが、その日に限って「さようなら。」と元気なく言って帰ったので、部員たちは、「今日の部長何か変だよな」と語り合っていた。
翌日、朝のホームルームで担任が「今日、うちの生徒が○○の交差点で交通事故に遭ってなくなりました」と言ったので、ピンと来た。「先輩だ!」
ホームルーム終了後すぐに部員たちが飛んできた。
「おまえ、Iさん死んだぞ!」
「そういえば、何か昨日変な感じだったよな」
そんな話をしていると、偶然にも、突然目の前にあった警報ベルが鳴ったのでみんな驚いてしまった。
私は、予兆や予知というものを信じる。
この話をあるクリスチャンに話したら、「それは偶然でしょ」との反応が返ってきた。人の死などの前に、それを予表する変わった出来事が起こるはずがないと。
たしかに、死ぬ前に何かの前兆があるかどうか、ということについては、確実にこれだということはできない。人が死ぬ前には必ずこれこれが起こるということはできないだろう。しかし、人の死を暗示するような出来事が絶対に起こらないということもいえない。
聖書では、このような死の予知についていくつかの示唆がある。
イエスはご自身の最期が近づいているのを悟っておられたと述べている(マルコ8・31等)。
イエスだけではなく、パウロも自分の死期が迫っていることを手紙に記した。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」(2テモテ4・6)
死は突然である場合もあるし、またそうでない場合もある。
5日くらい前に、たまたまファミレスで翻訳原稿の最終チェックをしていたら、突然ドーンというすさまじい音がした。
前の交差点に並んでいる車列に、大型トラックがブレーキなしで追突したのだ。おそらく居眠り運転だろう。
追突された小型トラックが前の大型トラックの間にはさまれて、前部がぺしゃんこになっており、中にいた運転手はその中に閉じ込められていた。顔色は真っ白で血の気がまったくなかった。
大勢の救急隊員の手によって救い出され、心臓マッサージが施されていた。その後延命したかどうかは知らない。
死はこのように突然やってくるかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、死も生も神が支配しておられるのだから、神が超自然的にそれを事前に知らせることもあるだろう。
現在、予知、予言などは旧約時代か、新約時代でも、聖書が記された当時に限定される、というような間違った意見によって、キリスト教から重要な部分が欠落している。
我々が肉眼や五感によって見聞きしているのは、世界のごくわずかな部分でしかない。
我々は次元の違う世界――霊的世界――が存在することを知るべきだ。
霊は、今南米にいても、呼びかけることによって、瞬時に目の前に現れるようなものである。
時空を超越した世界があることを悟るべきだ。
2005年11月13日
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