クリスチャンで、本当に用いられたいならば、小市民的な幸せをあきらめなければならない。
小市民的幸せとは、幸いで平和で、裕福で、健康な家庭を持つことだ。
なぜならば、イエスは次のように言われたからだ。
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(ルカ12・51-53)
なぜここで、家族を例に出されたかというと、サタンは、家族を通して働くからだ。
誤解してはならないのは、サタンは、金正日のような政治的権力者を通してだけ働くわけではない。
我々が一番心を許している人間を通して働くのだ。
あなたの父母や子供たちは、あなたのことを愛し、心配してくれるだろう。
しかし、サタンはこの愛情や心配を利用する。
我々が無防備だと、いつのまにか家族の「人間的な愛情や心配」を通じて、あなたを誘惑してくるだろう。
献身して牧師になる決意をしようとすれば、必ず家族の中から心配して引きとめる者が現れるだろう。
家庭の平和を求めるあまり、危険な宣教師のような活動をしようとすると必ず反対する者が親友や知人から現れて意思をくじこうとするだろう。
父親は、自分の立身出世を願ったり、自分が果たせなかった夢を追い求めるべく忠告してくるだろう。
家族や友人の意見にぐらついているようでは何の役にも立たない。
神は、こういった家族や友人を通じてサタンが働くことを一時的に許される。
それは、我々の決意を確認させるためだ。
献身者にとって一番きついのは、自分がもっとも愛する人と別離させられることだ。
生木を裂かれるような体験をあえてさせられる。
自分が一番気持ちを傾けている人と結婚できなかったり、別離させられたり、そういう一番酷な体験をさせられる。
どうしてか。
生半可な気持ちでは神の国はできないからだ。
神は我々のすべてのすべてを要求される。
神は、我々の内側につまっているすべてをくりぬいて、もぬけの殻のようにしようとしておられる。
我々は、外面的には人間の姿をしているが、中は空洞で、神の霊が完全に占領しているようなそんな存在にしようとしているのだ。
だから、あえて、一番気持ちが入っている人間と別離させられる。
幸いな結婚をして、幸いな家庭を築きたい、裕福になり、家を建てたいなどという夢は捨てさせられる。
あえて一人孤独な旅に送り出される。
自分が信仰を貫くことによって、家族の一致は破壊され、父母や兄弟から変人扱いされる。
「頼るものは、御言葉だけ」という状況になるまで徹底して訓練される。
信頼していた友人・会社・恋人・親戚から裏切られ、行くあてもなくなり、誰も信頼できない状況にあえて置かれる。
これがスタート地点だ。
パウロは、回心後、教会の交わりに入るでもなく、一人荒野で2年間過ごした。
小市民的な幸いなど求めているうちは、まだまだ神に利用される状態ではない。
神に用いられ、神の国のために働きたいならば、分裂、別離、孤独を甘んじて受ける覚悟が必要だ。
申命記に記されている祝福は、荒野の時代には与えられない。
あれは、カナンに入って、定住してからの話だ。
我々は、荒野を経て、カナンにおける戦いが待っている。
我々開拓者世代は、小市民的な幸せを得られる世代ではない。