ねたみは自分を不幸にする
会社に入って働いた経験から分かるのは、この社会は、人々を奴隷にしようとしているということだ。
円安で輸出が進み、史上最大の黒字を出した自動車メーカーが、この米国の経済破綻による売り上げ減が始まると、とたんに非正規雇用の従業員を解雇しはじめた。
しかし、円安の時代に蓄えた巨額のお金を救済のために使用することを拒否している。
企業の社会性を完全に無視した暴挙である。
こういう「人のために会社がある」という発想のない利己的な企業が長期的に繁栄するはずはないのだ。
今、解雇された従業員は、未来の顧客候補でもある。血も涙もない会社に仕打ちに対して抱いた恨みは、将来の不買につながる。
だから、こういう愚かな利己的な企業は敵を増やしているのだが、それに気づかない。
歴史上、経済至上主義の人間不在は、共産主義の台頭を許してきた。
実際は、共産主義は、人間不在の権化のようなものなのだが。
解決は、「聖書倫理の復活」以外にはない。
経済至上主義は、人間不在、人間の奴隷化を生み、それは、回りまわって自分の首を絞め、結局、自分をも不幸にしていく。
こういう長期的な大局からものを見れない根本には、宗教の不在にある。
宗教といっても、悪霊が作った擬似宗教ではだめだ。
聖書啓示に基づく宗教以外、ことごとく我々を奴隷化するだけだ。
悪魔の究極の野望とは、殺人と奴隷化である。
よく再建主義の批判者は、「聖書律法を回復すると奴隷制度が復活する」というが、逆だ。
聖書律法を復活することによって、人間は解放される。
「だって、聖書の奴隷制度を復活せよと言うのではないですか?」と聞くだろうか。
「聖書の奴隷制度」とは、「犯罪の加害者が、被害者に対して強制労働によって負債を支払うための拘束制度」である。
それは、「償い」のためだ。
人に害を加えた人間に自由などない。
賠償するまで自由を奪われて何がおかしい?
自由とは、法を守る人間にのみ与えられる。
逆に、聖書律法を拒否するならば、「法を守る人間すらも奴隷にされる」奴隷制度が復活する。
聖書律法を拒否する共産主義体制を見たまえ。
ソ連では、個人的・社会的倫理が崩壊した。
十戒は徹底して無視された。
それによって、社会は混沌化した。
その社会的混沌を収めるために何が利用されたか?
警察と軍隊だ。
レニングラードの中心街のネフスキー大通りには、50m間隔で警察官が立っていた。
いたるところに尾行と盗聴があった。
クリスチャンは投獄され、礼拝の自由は奪われた。
聖書律法を嫌う社会とは、「まともに法を守る人間、まともに生きようとしているまじめな人間が不自由を被る」社会なのだ。
これは、共産主義社会だけではない。
日本のように、擬似共産主義社会でも同じだ。
官僚組織や大企業の組織に属するならば、お金はもらえるが、自由は束縛される。
週休2日は与えられるが、夏休みは5日だけ。
休みといっても、会社に毎日報告義務があるから、精神的に休養できない。
自営業になればかなり自由は増えるが、逆に自由にできる金がない。
年収1000万から3000万くらいの人間にもっとも重い税金がかかる。
贅沢税といって、車には重量税などいろんな税金がかかる。
この国の法律は、自由と金を両立できないように仕組みができている。
こういう人間を幸せにしたくない社会を作ったのは、「国が金を集め、それを再配分する」という共産主義の思想である。
誰が利益を受けているかというと、利権政治家と企業、ヤクザである。
山口組の利益はトヨタに匹敵するという。
もし、我々が自由と金の両方を得ようと心から願うならば、累進課税制度や相続税をはじめとする、「国のぼったくり制度」を否定することだ。
これはねたみの制度だ。ねたみは、のろいであり、人をのろえば穴二つ。自分にのろいが返ってくる。
人をねためば、そのねたみは自分の首を絞める。
人を祝福せよ。そうすれば、自分も祝福される。
人に金と自由と時間を与えよ。そうすれば、自分にもそれがやってくる。
クリスチャンは、金と自由が両立する制度を目指すべきである。
そして、個人的にそれを求めるならば、それは必ずやってくる。
クリスチャンの体は神殿であり、神殿からは祝福の水が流れ出る。
だから、クリスチャンであることを十分に発揮するならば、必ず祝福は他人を潤し、また自分をも潤す。
今の共産主義のねたみの体制を認めるならば、自分をも奴隷化することをわきまえるべきだ。
2008年12月25日
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