憲法第9条は悪法である2


「文字へのこだわり」の伝統は、もともと日本においては希薄である。

この伝統は、聖書を聖典とするキリスト教において発達した。

キリスト教において、聖書は神の言葉である。神の言葉である以上、それを厳密に解釈しなければならない。

だから、神学者には、ギリシャ語とヘブル語のしっかりとした知識が求められる。

ここ200年の間にはびこった近代神学の文字軽視は、キリスト教の中に人間の創作の侵入を許す原因になった。

キリスト教文化の基礎であるキリスト教から文字にこだわるという伝統が失われたので、キリスト教文化圏において、法律の文言に対するこだわりも消えていった。

それと同時に、裁判官の恣意がのさばるようになった。

現在の世界の文化の趨勢は、相対主義である。人間のその時々の「感覚」「漠然とした思潮」というものが、人を裁いている。

憲法は、政治的必要によって、なし崩し的に空文化している。

インターネットの世界においても、「議論」が成立しない。

ただ「感覚」「なんとなくそう思う」というようなレベルであって、厳密な論理というものがない。

すべてがあいまいに、あやふやに、もやもやした中で、ぼんやりと、なんとなく経過している。

これは文化の死である。

 

 

2005年5月29日

 

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