教育は「神から授かった権利」である by R・J・ラッシュドゥーニー


現代生活において、教育が占める地位は、きわめて不確かである。失敗が起きると何から何まで教育の責任にされる一方で、社会のあらゆる希望や期待を一手に担わされている。

学校と大学は、「子供や人間のすべてを包括するプログラムは、学習の基本を越えており、権限を拡大しすぎている」と叱責されているが、他方で、その負わされる責任は拡大の一途をたどっている。

この不幸で矛盾したアプローチの基本にあるのは、「救世主としての教育」への期待である。この期待を受けて、教師は救世主のように振舞っている。

人々の考えを表現するならば、教育とは「すでに失敗していることが明らかのだが、それでも使命を果たせと鞭打たれている神」である。生活と社会における教育の目的・意味・働きに関する誤解があらゆる面に見られる。

この誤解の背後にあるのは、教会と国家と学校の間において数世紀にわたって繰り広げられてきた対立である。.ローマよりはるかに帝国主義的であることも散見される中世の思想において、社会とは、神の目に見える明白な主権の下に永続する一つの単位である。

中世後期において優勢であった教会の解釈によれば、教会は、地上におけるキリストの権威の連続と拡張であるのと同時に、宇宙に存在するすべての物に対するキリストの権限と王権の担い手でもあった。ボニファティウスの雄牛は「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)」(1302年)において次のように語った。


・・・われわれは、福音の言葉から、教会とその権能には、霊的な剣と時間的な剣という2本の剣が存在することを学ぶ。というのも、使徒が「ここに(*すなわち、教会に―話したのがその使徒であったので)2本の剣があります」と使徒が述べたときに、主は「それはやり過ぎだ」とはお答えにならず、「それで十分」とお答えになられたからである。

実際、時間的な剣がペテロの権威のうちにあることを否定する人は、「剣をさやに収めなさい」(ルカ22・38)という主の御言葉を誤解している。

両方―すなわち、霊的な剣と物質的な剣―は教会の権能のうちにある。しかし、後者は、教会のために利用され、前者は教会によって利用される。前者は司祭によって、後者は王と指導者によって(ただし、司祭の意思と許可がある場合に限られる)。そして、前者の剣は後者の剣のもとに置かれるべきであり、時間的な権限は霊的権限に服従すべきである。というのも、使徒が「神以外の権力は存在せず、存在する権力は神の任命による」 (ヨハネ18・11)と言う時に、 前者の剣が後者の剣に服従しないのであれば、そのような任命はありえないからである。

教会とその権能に関して、次のエレミヤの予言は成就する。すなわち、「見よ。わたしは今日、あなたを諸国と諸王国の統治者として置いた」(エレミヤ1・19)。従って、地上の権力が間違いを犯す場合、それは霊的な権力によって裁かれなければならない。格下の権力が失敗するならば、格上の権力によって裁かれなければならない。しかし、もし最高の権力が間違いを犯した場合、それを裁くのは人ではなく神である。というのも、使徒は次のように証言しているからである。「霊的な人はすべての物を裁くが、彼自身はどの人によっても裁かれない」(1コリント2・15)。

というのも、この権威は、人間に与えられ、人間によって行使されるにもかかわらず、人間的ではなく、神的であるからである。それは、神の御口からペテロに対して与えられ、彼と、彼が告白したキリストのうちにある彼の後継者のために岩の上に確立された権威である。

主はペテロ自身にこのように言われた。すなわち、「あなたが結ぶあらゆるもの」(マタイ16・19)と。そのため、神がお定めになったこの権威に逆らう者は誰でも、神の命令に逆らっているのである…。

さらに、われわれは以下を宣言し、言明し、定義し、宣言する。すなわち、誰でも救いを求める者はローマ司教に服従しなければならないと。(Herlry Bettenson, ed.: Documents of the Christian Church, Oxford: University, Press, 1943, P. 159 ff.)

 

 

2010年12月26日

 

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