神の自己認識こそ人間の世界認識の土台である
聖書は、人間から認識を出発することは次の2つの理由から不可能であると述べている。
(1)人間の知性は汚れている。
(2)人間の知性は有限である。
(1)
近代になって人間は認識の基準を人間自身に置いた。デカルトは、「神もキリスト教も迷信かもしれない。唯一確かな物は、今このように考え疑っている自分だ。この自分が存在することは明らかだ。ここから出発しよう」と考えた。
ここで、派生物でしかない人間が、認識の基礎となるという矛盾した現象が起きた。根源者である神は、その派生物の認識に依存させられた。
これは「逆方向の救済」である。人間が神を救ってあげるという形式が生まれた。
今、ノンクリスチャンはもちろんのこと、ミッション大学の神学部のほとんどすべてもこの認識論を前提としている。
それゆえ、世界のほとんどすべての思想は、「聖書でも何でも疑うことができる。しかし、唯一疑ってはならない物は、疑っている自分である。つまり、『人間の認識能力は絶対である』という命題だけは疑ってはならない」と考えている。
しかし、聖書は、「人間の認識能力はあてにならない」と主張している。
「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性…までも汚れています。」(テトス1・15)
「彼らは、その知性において暗くなり、…神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4・18)
そして、認識の前提は「神を恐れること」である、と述べている。
「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1・7)
近代のクリスチャンの最大の間違いは、「認識は神への恐れから始まる」という真理を捨てて、デカルトの「疑っている自分から認識をはじめよう」というノンクリスチャンの知性を認めてしまったことにある。
出発点にはなり得ないと聖書が宣言している「ノンクリスチャンの知性」を「人類に共通する出発点」として受け入れてしまったことにある。
だから、近代のクリスチャンは、聖書までも疑い、聖書を切り貼りして、神の啓示に手をつけるという冒涜を続けてきたのである。
これは、エバが犯したのと同じ「不信」の罪である。
神を認識の前提としよう。神の言葉である聖書に書かれていることを疑わないようにしよう。
(2)
人間の認識の出発点は神の自己認識にある、とヴァン・ティルは述べた。
人間は自分のことを完全に知っているわけではない。自分の中に隠された性質があることをある時発見することがある。
人間は、職業を通じて、人間関係を通じて自己を発見する。自分のうちにあるものを完全に把握している者などいない。
それゆえ、人間は土台とはならない。
近代の人間は自分を土台としてそこから認識を開始できるとするが、自分自身についても不完全にしか知りえない人間が土台などなれない。その土台の上に立つと簡単に壊れてしまうものを踏み台とする人がいるだろうか。
人間の知性は有限で不完全であるため、認識の出発点にはならない。
しかし、神は自分について完全に知っておられる。神の自己認識は完全であり、絶対である。まだ見つかっていない性質など神には存在しない。それゆえ、神だけが唯一の土台になりえるのである。
この踏み台に乗っても、どこかに穴が開いているということはない。一点の傷も穴もない完璧な踏み台は神の自己認識である。
自分のことすら満足に知りえない人間が世界認識の出発点になどどうしてなれるだろう。
近代を超えるものは何かと問われて久しい。
我々は、近代世界が当然としてきた認識の出発点から疑うべきだ。原点のそのまた原点を探って真の病巣を探り当てる必要がある。
近代の様々な体制が崩壊しつつある今日、その土台となってきた認識論への問いかけこそ我々に与えられている本当の課題ではないだろうか。
2004年5月9日
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