聖書的キリスト教はあらゆるものに意味を与える


ソルジェニツィンが、「ロシアの人々は、ソ連という時代をかくも簡単に忘れ去った。」という内容のことを述べたのを記憶している。

あの過酷な70年、人間が人間を組織的に虐待・奴隷化する悪魔の帝国を歴史は忘れない。

どんなに今のロシア人が忘れているように見えても。

その証拠は、人々が共産主義の正体を見、そのようなものにもはや希望をもたなくなったということである。

百聞は一見にしかず。実際に見ないと人間はなかなか説得されない。

60年代にもりあがった左翼運動も、70年代の内ゲバ、テロによってすっかり評判を落とした。

人々は、もはや共産主義に希望など見ていない。

歴史的事件、とくにソ連の誕生と崩壊などの巨大な事件は、人類の記憶に強烈に残っている。

歴史的事件には意味がある。

無神論的に見るならば、意味などない。すべて進化論で割り切るならば、どのような事件がおきても、偶然である。人類は偶然に動物から生まれて、発達している、と。歴史に何か重大なことが起きても、長い目で見れば、広大な宇宙の片隅にある砂粒くらいの星で起きた偶然の出来事である。

ヒューマニズムは、何もかも無意味化する。

しかし、キリスト教は、神とその神の御心に基づいて進展する世界、というストーリーがあるから、事件に意味を与えることができる。

ある人は、「そんな意味必要ない。偶然に生まれて死ぬ。それでけっこう。」というかもしれない。

こういう人はニヒリストを気取っているだけである。本当のところは意味を渇望している。

人間は意味を見出さずに生きられない。

かの収容所の刑罰で、空のバケツの砂を別のバケツに移し変え、またその逆をやる、という作業を延々と続けるというものがあるそうだ。

無意味なことを延々と続けるなんてことは、人間できるはずがない。人間は本当のニヒリストになれない。

じゃあ、人間って何。人生って何。この俺って何?なぜ生まれて、なぜ社会があって、なぜ事件が起こるの?

こういった疑問に答えられるのは、聖書的キリスト教しかない。

救いといっても、何億年先にやってくるなんてものでは意味がない。

聖書的キリスト教は、今から2000年前にキリストは人間、世界、すべての罪を背負ってその代価を払い、神の御前にすべてを無罪とされた、我々は救われた、と教える。

キリストは、神の御前に呪われたものを法的に根絶された。

我々は、この法的事実を現実に適用する中において、徐々に人間と世界を回復する。

歴史とは、神の法的支配を、実際的支配に変える過程である。

この大きなストーリーの中にすべてを位置付けるときに、我々は本当に意味のある人生を歩み、また、世界を意味のあるものに変えることができる。

 

 

2008年6月12日

 

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