車で生活するぐらいの覚悟がなければキリストの弟子になれない
(1)
信仰とは、感情的ではなく、法的なものです。
私たちがどのような精神的状況になっても、事実は厳然としているのです。
いったん法的な意味で赦しが与えられた被告人は、何度裁判所に通って「赦されていないのではないか」と掛け合っても、追い返されるだけなのと同じです。
感情に頼りすぎるというのは、サタンの罠です。
感情もすべて主にお渡しして、考えないでいることです。
(2)
環境があまりにも悪ければ、自分の健康に被害が及ぶ前に変えてもよいわけです。
誰に責任を持つ必要もありません。
人間は一人で生きていけるものですから。
そもそも、自分に対して罵詈雑言を浴びせながら自分の収入に頼っている人間にまで責任を持つ必要はないわけです。
人間の責任は双方向であり、一方的ではありません。
もし相手が自分に対して敬意を払わないのであれば、こちら側としては義務を提供する責任はないのです。
自分の健康が最優先です。
あまりにもプレッシャーがきついならば、辞めるべきです。
(3)
全部背負っていたらもたないです。
「自分の義務は果たす。その後は無責任になってよい」というのが安息日の原理です。
自分の義務は果たした後のことまで心配すると、身がいくつあっても足りません。
経済的にきついならば、車で生活するぐらいの覚悟がなければキリストの弟子になどなれません。
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 (マタイ8・20)
2008年12月14日
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