科学的発想では日本の本質は読めない
(1)
どうやら、八咫烏にしても、秦氏にしても、「アルファなりオメガなり」の原則を持っているらしい。
八咫烏は、これを「あうん」と言った。
つまり、「全部」を表現する場合に、「あ」と「ん」を抑えるということだ。
八咫烏は、飛鳥氏との対談で、「籠神社」と「伊勢神宮」は「あ」と「ん」だと言った。
彼らによると、元伊勢である籠神社は、「伊勢神宮のご神体がはじめて上陸したところが籠神社」である。
だから、そこは「あ」である。そして、伊勢神宮が最後にたどり着いた「イスス川」のほとりは「ん」。
どちらにも、「ダビデ紋」がある。
小林隆俊氏によると、伊勢神宮の奥の奥にダビデのマークがあるという。
参道の柱には、ちゃんとそのマークが一本一本ついている。
関係者によると、それは、伊雑宮のマークだそうだ。
籠神社の裏にある真名井神社のマークは、ダビデの紋。
これで、「あ」にも「ん」にも同じマークがついていることの意味がお分かりだろうか。
つまり、伊勢神宮はことごとくユダヤなのだ。
だから、式年遷宮で方々を移動しているのは、幕屋を表すということ。
これで、神社が幕屋と似ている意味が分かる。
聖書において、幕屋とは、キリストの体の象徴。
神殿が崩壊した紀元70年から、キリストの御体と、クリスチャンの体が神殿になった。
最後に五十鈴川のほとりに来て、その周りを移動しているのは、最終的に、イエスこそ、出エジプトの目的であったということを表現している。
五十鈴川は、もと「伊須須(いすす)」と呼んだ。ロシア語で、イエスのことをイーススという。
「いすず」という音を表現するだけなら「五鈴」でいいはずなのに、真ん中に「十」の文字が入っているのは、明らかに意図的である。
十字架を含意しているのだ。
式年遷宮の隠れた意味とは、イエスへの信仰である。
イエスはご自身のことを「わたしはアルファであり、オメガである」と言われた。
これは、日本語で言えば「わたしは『あ』であり、『ん』である」となる。
伊勢神宮が、真名井神社の「あ」と伊雑宮の「ん」のどちらにもダビデ紋を置いて表現したことは、「イエスこそ、伊勢神宮の崇拝対象である」ということ。
だから、神社本庁が天照大神はキリストであったと発表しても、なんら不思議ではない。
日本はキリスト教国なのである。
しかも、本家本元である。
(2)
多くの人は、近代的な思考法をしている。
目に見えるものだけを証拠として持ちたがる。
しかし、日本を作った人々は、そういう方法を取らなかった。
彼らは聖書的な知識伝達方法を採用した。
それは、「豚に聖なるものを与えるな」という方法である。
聖書にあるよいものが見分けられない人々は「豚」と表現されている。
聖書的真理を豚に示すと、向き直って攻撃してくる。
だから、「分かる人にだけわかればよい」という方法を預言者は採用した。
イエスも「耳のある人は聞きなさい」と言われた。
本当に価値のあるものは、「霊的受信機を備えている人だけに啓示される」。
だから、霊的受信機を持っていない人々は、科学的な認識論に固執し、いつまでたっても理解できない。
イスラエルの預言者もイエスも象徴で語られた。
そのように、日本を創建した人々も、象徴で語っている。
それを読み取るのは、我々のうちにある霊である。
「伊勢神宮は、参道のダビデ紋はユダヤと関係ないと言っている」ということをまともに信じるのは馬鹿である。
日本を見るときに、裏を見れない人は何も理解できない。
ほとんどすべてに裏があるのだ。
古代の資料の中にはっきりと「日本はキリスト教国である」などと書いてあるものなどない。
それは、分かる人にはわかればよいという思想からだ。
2008年12月13日
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