平等幻想からの解放


Thomas and Bean, "Fishers of Men", p.914 によれば、奴隷貿易は一部の人しか儲からなくて、大多数はそこそこの利益しか上げられなかったそうだ。奴隷主が奴隷から利益を上げることができればそれだけ奴隷の価格は上がる。価格は上がるから奴隷の買い付けも難しくなり費用がかさむし、輸送費もかかるので奴隷商人の儲けも減る。

じゃあ誰が儲けるかと言うと、アフリカで同胞をさらって売り渡すアフリカ人奴隷狩りだ。しかし、その奴隷狩りも、奴隷商売が儲かると聞いて参入した競争相手から自分の商売や商品である奴隷を守るのに費用がかかり、結局利益は目減りしていった。

結局、奴隷貿易も、他の商品と同じように自由競争の原理に従わざるを得なかったということだ。

奴隷商売で莫大な利益を得たのはごく一握りだったという。

この世に誰もが儲かる商売など存在しない。一部が儲けて、その他は貧乏に甘んじる以外にはない。

最近勝ち組と負け組という言葉が流行っているが、一億総中流なんてのは幻想だったのであり、最近の金持ちと貧乏人の2極分化は、自由社会のたどる自然な結末なのである。

ある雑誌で、このような中流階級が減っているのは間違っている、貧乏人が政治力を駆使して金持ちから税金をふんだくろう、と言う評論家がいたが、もう一度社会主義に戻りたいのか、と言いたい。

彼は、アメリカのような露骨な競争社会は結局一部の金持ちを幸せにするだけだ、というが、アメリカの自由競争は社会全体の経済と生活水準を底上げして、貧乏人でも社会主義国の富裕層よりも豊かな生活ができるようにしたではないか。

日本人の知識人の「結果の平等」への執着はなかなか消えないようだ。

このHPにおいて何度も言ってきたが、政治力によって富裕層に重税を課すのは、「ねたみの経済学」であって「罪」だ。

どの商売でもそうだが、勝ち組は1割しかいない。残りの9割は負けるのだ。それが現実だ。その現実を回避したいなら、人為的なコントロールをする以外にはない。そうすれば、ねたみが勝利する、実に不道徳でつまらない社会になる。

相撲などスポーツが面白いのは、勝つ者が少数だからだ。全員が年功序列で横綱になれるなら誰が相撲を見たいと思うか。

失敗は悪だ、貧乏は悪だ、負け組は恥だ、という間違った思想を捨てよう。これは、マルクスが作り出した幻想だ。

結局、この地上生活で「金」を人生の主要な価値に置くからおかしなことになる。

人間は自分に与えられた能力に見合った収入で満足すべきだ。それ以上を取るために金持ちから奪え、と言う「平等幻想」から解放されないから、「ストーカー」「引きこもり」など昔日本が貧乏だったころになかった病気が溢れているのだ。

 

 

2004年5月13日

 

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