ユダヤ人神学はそんなに優れているのか?
今、キリスト教界の中にメシアニック・ジューや、ユダヤ人の聖書解釈を尊重する動きが出ている。西洋文明に対する反省からユダヤ、日本に対する関心が増しているという背景からだ。
そして、「欧米流のキリスト教は・・・だが、ユダヤ人のキリスト教は・・・」という対比がなされる。
例えば、「欧米流のキリスト教は、自然法に頼り、聖書律法を軽んじてきた」と。
これは正しい。欧米流のキリスト教(もしくは俗に「異邦人神学」とも呼ばれる)が、聖書律法を嫌い、その代わりに自然法を選択したという事実はある。
しかし、欧米流のキリスト教の何もかも否定するのはよくない。
欧米においてキリスト教は発展してきた。間違った流れもあるが、正しい流れもある。
神は、必ず「ともしび」を残してくださる。
どんなに全体が堕落していても、少数の人々を残し、真正な教えを保ってくださる。
カルヴァン――A・カイパー――ヴァン・ティル――ラッシュドゥーニー――ゲイリー・ノース
神は純粋に聖書的な神学として、この流れを維持してくださった。
その他は、「人間の知恵」が入り汚染されている。
もちろん、人間が考えたことすべてが悪いと言っているわけではない。
「聖書を否定する偽知恵が神学の中に入った」ということだ。
人間の知恵でも、聖書と矛盾していない知恵は間違いではなく、それを取り入れても問題はない。
しかし、聖書を否定するもの、聖書の教えと矛盾するものが入れば、その神学は汚染された神学であり、純粋な神学とは呼べない。
こういった汚染神学が今のキリスト教界全体を支配している。
だから、欧米のキリスト教は堕落している。
その反動として、ユダヤ人の神学、ユダヤ人の聖書理解への評価が起きているが、はっきり言って不健全である。
今のメシアニック・ジューのユダヤ人神学は、ほとんどがディスペンセーショナリズムやリベラリズムに基づいており、それゆえ異邦人神学とさして変わりはない。
もちろん律法に対するするどい意識は見習うべきものはあるが、欧米において発展した純粋神学と比べるならば、「比較に値しない」レベルである。
ユダヤ人神学の影響により律法が回復するのはよい傾向だ。しかし、律法の回復は、ラッシュドゥーニーやグレッグ・バーンセンにおいてすでに始まっている。
だから、異邦人だから劣っており、学ぶに値しないというようなものではない。
もしユダヤ人神学がそれだけ優れたものであるならば、ヴァン・ティル、ラッシュドゥーニー、グレッグ・バーンセン、ゲイリー・ノースを越えたものでなければならない。
一度それらを消化してからものを言わねばならない。
「ユダヤ人だからすごい」と考えるのはあまりにも単純すぎであり、「ユダヤ人崇拝」につながる極めて不健全な傾向である。
2008年4月30日
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