前の掲示において、ホートがウェストコットに宛てた1864年9月23日付けの手紙を紹介した。
再び読み返してみて、その中において一つ興味深い言葉を見つけた。
そんなに遠い昔ではない時期に、私があなたとライトフットを驚かせたのを覚えています。それは、「プロテスタントの信仰は、一時的なものでしかない」と述べたからです。
(Arthur Hort, Life and Letters of Fenton John Anthony Hort, Volume II, (New York Macmillan and Co., 1896), p. 31.)
「プロテスタントの信仰は、一時的なものでしかない」!
この言葉からホートが、プロテスタントの宗教改革を軽視していたことが推測できる。
彼がローマ・カトリックのバチカン写本を翻訳聖書の底本にしたのは、宗教改革を反故にするためだろう。
これでいろいろ見えてこないだろうか。
今のキリスト教がどうしてアルミニウス主義に傾いているか?
アルミニウス主義とは、プロテスタントの中から出たが、内容的にはローマ・カトリックに近い。
予定論を嫌う。
我々の救いは、半分人間の力によって起こったとする。
プロテスタント、とくにカルヴァン派は、徹底した「恩寵絶対主義」である。
どういうことかというと:
アルミニウス主義は、生まれながらの人間を「救われようと必死にもがいている半死人」と見る。
人間は、海でおぼれて救いを求めてばたばたしている。そこに浮き輪が投げられ、その人が自分の選択によってその浮き輪にしがみつく。
だから、救いとは、神と人間の共同作業だという。
しかし、カルヴァン主義は、人間を「生まれながらの死人」と見る。
彼はもがくことも何もできずに、海底に沈むただの溺死者だ。
しかも、心臓をサメに食われている。
完全に再起不能。「救われたい」とすら思えない。
神は、その溺死者の心臓を蘇らせ、体のすべての部分を元通りにし、命を吹き込んで、海上に浮上させ、意識を与える。
そして、生きるためにもがくようにさせる。
そこで、神が彼に浮き輪を与えてそれにしがみつかせる。
つまり、救いとは、一方的な恩寵なのだ。
最初から最後まで恵み。
だからアルミニウス主義とカルヴァン主義の違いは非常に大きい。
アルミニウス主義は、行為義認を主張するローマ・カトリックと似ている。
霊的な流れとしては、両者は同じ。
カルヴァン派は、神が一方的に選んでくださり、無関心だった私の心を復活させ、救われたいという気持ちを起こしてくださったのだと信じるから、救いは最後まで神のイニシアチブで行われると考える。それゆえ、救われた人は、最後まで神に捨てられることはないと安心できる。
しかし、アルミニウス主義やローマ・カトリックは、半分もしくは全部人間の努力によるから、「人間の気持ち次第でどうにでもなる」と考える。
だから、伝道集会などでムードを重んじる。人が救われやすいように、できるだけ「罪」とか「刑罰」などのきつい言葉を使わないようにしようという配慮をする。
しかし、カルヴァン主義は、救いは一方的な神の働きだから、そのような人間的なテクニックなど通用しないと考える。
「予定された人は救われ、最後まで信仰を持ち続けるし、予定されていない人は、途中でやめてしまう」と考える。
プロテスタントを軽視したホートがバチカン写本を選択し、現代のクリスチャンがその聖書を使っている以上、クリスチャンの中に「人間の努力」を信じるアルミニウス主義者が増えるのは当然だ。
ウェストコットとホートの影響を受けているネストレを使った聖書を読む読者は、知らず知らずに反宗教改革に汚染され、聖書の教えから離れる恐れが十分にあるので注意されたし。