スポルジョンは直接啓示を認めていた


現代の教会は唯物論の影響を受け、直接啓示を全的に否定してしまった。しかし、直接啓示を否定することは、正統派のキリスト教の試金石ではない。

かの大説教家C・H・スポルジョンは直接啓示を認めていた。


…これらのヤコブの息子たちは特別な示しを受けた人々である。ヤコブは神から特別な啓示を受けていた。そしてそれゆえに彼は非常に大きな栄誉を受けたのである。

ある時、彼は夜、横になって寝ていると、…はしごを見たのである。その上を神の御使いが昇ったり降りたりしているのである。

…さて、みなさんのうち何人が個人的な示しを受けたことがあるだろうか。

ああ!あなたは、「それは熱狂主義だ、狂信的だ」と言うだろうか。よろしい。それは祝福された熱狂主義なのだ。

というのも、歴代のヤコブの息子たちは、特別な示しを受けてきたからである。

彼らは、自分の友人と話すように、神と会話をし、エホバの耳元に小声でお話をしてきたのである。

キリストは彼らと夕食をともにし、彼らはキリストと同席してきたのである。

聖霊は、彼らの魂の中に、非常に力強い輝きを差し込まれたので、彼らは特別な顕現が存在することを疑うことができなかったのである。

ヤコブの息子たちとは、このような示しを享受してきた者たちなのである。(Spurgeon, Charles, Spurgeon's Sermons Volume 1, (Albany, OR: Ages Software) 1998.)

直接の神との語らいを否定することによって、または、直接の神からの光や啓示を拒否することによって、我々は、どれだけ多くの宝を失ってきたのだろうか。

聖書のどの一節からも証明できない教えを信じることは、権利の遺失だけではなく、神への反逆でもある。

異端は禁欲が好きだということをどうか理解していただきたい。

教会は、1コリント13章に基づいて「完全なものが現われた、すなわち正典が完成したので、賜物は終わった」と主張してきた。再建主義者のケネス・ジェントリーも同じだ。

しかし、この「完全なもの」が「正典の完成」を示していると解釈しなければならない理由はまったくない。

カルヴァンですら、それを「個人の死」としている。つまり、「個人が死んだらキリストと会える。そのとき、はっきりと真理を知るようになるから、預言も異言も不要になる」と。

パウロは、完全なものがやってくれば、不完全なものを補うあらゆるものは廃れる、と言う。しかし、その完全なものとはいつ来るのだろうか。それは、まさしく、死とともに始まるのだ。というのも、我々は死ぬ時に、肉体を脱ぎ捨てるだけではなく、多くの欠点をも脱ぎ捨てるからである。…それゆえ、我々の信仰は、現在、神を不在者として見ているのである。なぜだろう。我々の信仰は、神の御顔を[直に]見ているわけではなく、鏡の中にその御姿を映すことで満足しているからである。しかし、我々がこの世を去って、神の御許に行く時には、神を間近に、目前に見ることになるのだ。(Calvin, John, Calvin's Commentaries: 1 Corinthians, (Albany, OR: Ages Software, Inc.) 1998).

行き過ぎはいつでもよくない。

 

 

2008年5月13日

 

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