安息日の原理は、クリスチャンの生活において基本である。
(1)
安息日の制度はキリストにおいて成就し、今日「土曜日じゃなければ安息日ではない」などという規則は存在しない。だから、誰も「日曜礼拝は違法だ」と言えない。
旧約聖書の安息日の制度は、キリストという「安息」が登場したことによって成就し、我々がキリストを信じるならば、毎日が安息日なのだ。毎日がオアシスである。キリストのもとに行けば、癒しがあり、生ける水をただでいただくことができる。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7・38)
安息日の実体はキリストであり、我々は祈りにおける神との交わりの中で毎日癒しを得られる。
(2)
安息日制度は、人間にとって一つの法則を教えてくれる。
6日働いて、1日休むというサイクルは、仕事における神と人間との共同作業を教えている。
何かを実現させるためには、我々が6日働き、そして、神が1日働かれなければならない。
何もしないで神頼みしても実現しない。
クリスチャンの就職活動は「ただひたすら祈る」ということではなく、しかるべきアクションを起こし、会社の資料を集め、分析し、自分の適性を考慮し、会社を訪問し、担当者と面談する必要がある。
しかし、それだけではだめで、神に祈って導きと祝福を求めなければならない。
仕事も、具体的な活動をし、最後に神にゆだねるという方法を取らねばならない。
何でもかんでも自分でやらないと気がすまない人は、安息日の原理を冒している。
「何もかも疲れました。さようなら」と言って自殺するような人は、神にゆだねるということを知らなかったのだ。
我々はしばしば問題が複雑になって手に負えなくなることがある。
糸がこんがらかってどうしようもなくなることがある。
そんな場合は、神が働かれる時が来たと考えるべきだ。
人事を尽くしてどうしようもなくなったら、神に祈って休むことだ。
「神様、あとはお任せしました。では寝ます。」と。
安息日を自分に与えて、しっかり休みを取るべし。
そうすれば、疲れは解消し、翌日になったら、問題が不思議と解決しているのを発見するだろう。
争いごともそうだ。
利害対立した場合に、様々な手段を講じるべきだ。相手と話し合う。裁判を起こす。
それでもだめなら、神にゆだねることだ。
「徹底して懲らしめてやる!」などと考えてはならない。
我々がなすべきことは、合法的なことだ。神の法と国の法律を守ってできるだけのことをしたなら、あとは超越的な審判を待て。
自分で復讐するな。復讐は神にゆだねよ。
我々は、社会改革を行わねばならない。
政治などを通じて社会制度を改善すべきだ。しかし、すべてを社会制度にゆだねると失敗する。
どんなに理想的な社会制度を作っても、信仰がなければだめだ。
神に服従する、心が神と和解した人々がいなければ、社会制度を完全にしても、作用しない。
心が捻じ曲がっていれば、様々な脱法行為によって制度は有名無実化し、法律は空文化する。
祈りだけで働かないことも間違いだが、働くだけで祈らないのも間違いだ。
世界は、人間の仕事6+神の仕事1で完成するようにできている。