律法はいのちを与えないか?
けっこう今仕事できついんですよ。
レスポンスのタイミングについてご容赦ください。
> う〜ん、そうなんですかねぇ・・・
またまた、驚きますね。
あの人の議論、ハチャメチャですよ。
> まあ、山谷さんの件はこれでおいといて、とりあえず、今回の私の側の主張は、上に書いたとおりです。そちらのBBSにもこちら側の主張として掲載してくださるとバランスが取れると思います。
OKです。
> 論評する場合、相手をまず理解すること、相手が言ってもいないことを言っているかのようにではディベート以前ですよね。私はモーセ律法を「悪者扱い」などしていませんし、その第3の機能を否定してもいません。
まずお断りしなければなりませんが、私はLUKEさんのHPから論じたのではなく、質問された方の添付の文章について論評したので、必ずしもLUKEさんの全体的律法観を批評したわけではないということです。
あくまでもあの文章に載っていた内容を批判したので、この点ご容赦ください。(私は、他人の仕事にわざわざ入りこんで難くせつけるということをするほど時間的にも経済的にも余裕はないので、質問された内容について回答することしか今はできません。)
たとえば、善悪の木の系統に律法を置いているというのは、典型的なディスペンセーショナリズムの議論であって、契約神学ではないですね。
善悪の木の系統に属すると言った場合普通、「わざの契約」に属すると考えますね。(聖書において、善悪の木は、「永遠の命を自力で達成するための試金石」として描かれていますので。)
「わざの契約」とは、「自分の行いによって永遠の命を獲得する契約」です。
それに対して「恵みの契約」とは、「キリストの行いへの信仰によって永遠の命を獲得する契約」です。
アダムは、契約主として、全人類を代表して、「行いによって永遠の生命を獲得するべく定められた」人間でした。しかし、失敗したために、神は恵みの契約を用意して、彼を救うことを計画された。
ディスペンセーショナリズムは、律法をわざの契約に属する(ディスペンセーショナリズムはわざの契約と恵みの契約という概念を持たないが)と考えますが、律法は、神がアブラハム契約(恵みの契約)に属する民に対して与えた「恵みの契約の一部」なのです。
仮にLUKEさんがディスペンセーショナリズムとまったく無関係に論じておられるなら別ですが、律法を善悪の木の系譜に属すると述べると、完全に「律法を、自力で救いを達成するために与えられたもの」と解釈していると受け取られてしまいます。
> 私に「ディスペンセイション主義」のラベルを貼って、私の主張ではなく、富井さんの頭の中のソレを批判しているわけです。なにしろ私は「恵は人間が自分勝手できること」などとは主張していませんから。恵と律法を対立させてもいない。
>
> 富井さんとの違いは、律法はいのちを与えないこと、キリストの復活のいのちを得て初めて律法を行ない得ること、だから「信仰は律法を全うする」わけです。すなわち恵は律法を全うするのです。これは「律法と恵み」のスレをご参照下さい。
律法はいのちを与えます。
いのちを与えないならば、なぜ旧約の民は、「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」(詩篇119・93)と感謝の祈りをしたのでしょうか?
そして、神は律法を与えたときに、民に対して「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。」(申命記30・11)といわれた。律法は「守れるものという前提で与えられた」!!
律法を「永遠の生命を与えるものとして」見た場合と、「民が祝福を受ける生活を送るためのものとして」見た場合とを区別しないと、律法全廃論と見なされても仕方がないのです。
LUKEさんのご意見は、律法を「永遠の生命を与えるものとして」という新約聖書におけるパウロの「義認論」において出てきたものとして考えた場合正当ですが、旧約聖書における律法は、必ずしもそこだけに焦点が当っているわけではないのです。
すでに私が3つの文章で述べたように、律法には3つの効用があります。「1、人に罪を自覚させる。2、キリストを待望させる。3、いのちの生活の送り方を教える。」
その効用のうちで、1と2だけに着目することによってディスペンセーショナリズムは間違いを犯してきた。我々も、たしかに、1と2の機能だけで考えるならば、「律法は何事もなし得ない」と言えます。しかし、聖書において律法はそれだけではない。律法は、「契約の民として相応しい生活指針」でもあった。
ユダヤ人は、律法を愛しています。今でもユダヤ人にとって律法はアイデンティティです。「これは我々にだけ与えられたものであって、異邦人には与えられていない。だから律法を研究する異邦人は死に値する。」とマイモニデスは述べた。これは極端ですが、とにかくユダヤ人にとって律法は「死の道」ではなく「いのちの道」なのです。
現在のユダヤ人の神学の間違いによって議論が混乱するのを避けるために、旧約聖書のユダヤ人に焦点を絞りましょう。
旧約聖書のユダヤ人は、契約の民でした。契約の民は、「約束によって救われた民」でした。それは、ずっと紀元70年まで(聖書的に言えば今日までも)変わりありません。彼らが割礼を受けたのは、ほとんどが幼児においてでした。
幼児が契約に入るというのは、これが行いによるのではなく、約束=「一方的な恵みによる」ということは明らかです。彼らは「一方的な恵みによる救いの中にすでに入っている民」だったのです。その民にとって律法とは、「これによって救われるかどうか」というものではない。
それは、主に「救われたのだから、御民としてふさわしい生活を送りなさいよ」というために与えられた。ユダヤ人は、聖書の中で「我々には律法が与えられているから幸せ者だ」と述べたのは、律法は智恵だからです。悪事を行うことが最終的に不幸に至る道だと悟っているから、神の戒めを愛した。
しかし、新約聖書において、パウロは主に、このような「生活指針」としての律法に対してではなく、その犠牲制度に焦点を置いた。なぜならば、当時異端の人々が、律法によって命を得られると説いていたからです。だから、彼は律法を「救われるための道具ではない」ということを強調して語った。
しかし、パウロは、第3効用も忘れてはいなかった。「律法も言うように…しなさい。」との命令は「生活指針」としての律法を尊重していたからです。
だから、「律法はいのちを与えない」というのは、極端な言い方であり、聖書全体を見た場合、むしろ「律法はいのちの道」であると言ったほうが正当なのです。
聖霊によらずに律法を守れるかどうかという点についてはそのとおりと答えましょう。
旧約聖書の人々は、救われていたのであり、神の霊を受けていた。バプテスマのヨハネは胎の中にいるときにすでに聖霊に満たされていた。
> そのキリストは律法の430年前のアブラハム約束の種(単数形)であること。この後付加的にモーセ律法は与えられたこと。もちろん律法は聖なるものであり、人を神の標準に導くものですが、その力がない。なぜならいのちを与えないからです。以上、No.1921でレスしたとおりです。
「もちろん律法は聖なるものであり、人を神の標準に導くものですが、その力がない。なぜならいのちを与えない」
たしかにそうです。しかし、旧約聖書の民は、時代によって霊的状態は違いますが、総じて言えば、実際にいのちの生活をしていた。
詩篇を読めば、律法に対する感謝が数多く見られます。本当の御民は律法を喜んで守っていた。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは「律法を落ち度なく守り行っていた」と記されています。
旧約時代においても神が聖霊を送られて、律法を守ることができるようにされたと考えることは可能です。詩篇113を読むと、この作者が聖霊に満たされて律法を感謝したことが分かります。
旧約・新約、いつの時代も、人間は律法と聖霊が必要であり、それなしには正しく歩むことはできない。
そして、律法は道ではあるが、道を歩ませる原動力は霊である。歩ませる力を与えないというので律法を「いのちを与えない」と断定するのは間違いです。
たとえば、手元に高速道路マップがあるが、車が故障している場合、高速道路マップを「役立たず」と捨ててしまうでしょうか?車という原動力があれば、それは十分に役立つものなのです。
私がLUKE様の律法観を「悪者扱い」と考えたのは、「いのちを与えない」というような言葉で表現することによって、読者に誤解を与え、ディスペンセーショナリズムがやってきたように、律法の全廃につながりかねない。そういった負の歴史があるので、あえて「悪者扱い」という言い方をしました。
> それから、「図式」がありますが、
>
> 善悪路線→・・・→救済失敗
> いのち路線→・・・→救済成功
>
> これも私はこんなことは言っておりません。なぜなら救済とは善悪路線からいのち路線にもたらすことですから。これについてはNo.1921の図式を掲げて欲しいですね:
「善悪路線からいのち路線にもたらすこと」が救済ならば、善悪路線に属すると言われる律法は、「そこから救済されるべき奴隷と死のくびき」と見られても仕方ありませんが…。
2005年10月7日
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