リベラリズムの運動は法を捨てることによって自殺しようとしている
市民運動や良心の運動の敵は、実は権力でも右翼でも何でもない。
自分自身である。
リベラル派と呼ばれる人々の運動は、自らの不見識によって破壊されている。
アムネスティは、殺人犯の処刑すら反対している。
殺人に対して社会が処刑よりも軽い刑罰を課することを主張するということは、殺人犯を被害者よりも厚遇せよ、と言っているのと同意である。
社会秩序が維持されるためには、ルール違反者に対して、ルール違反によって被害を被った人のよりも大きな害を与えなければならない。
そうでなければ、犯罪者は「やり得」になる。
社会秩序を維持するためには、我々は、加害者よりも被害者を守らねばならない。
被害者の被害よりも、加害者に下る刑罰が大きくなければならない。
犯罪を抑止する最大の効果は、「相当な刑罰」にある。
今のリベラル派や市民運動は、「死刑絶対反対論」という間違った考えに支配されており、それなるがゆえに良識人の支持を得ることに失敗している。
日米においてリベラル政党が政権交代政党として機能していないのは、これらの良識人の眉をひそめさせるような人々の権利を保護しているからである。
故意の殺人犯の処刑に反対し、同性愛者の結婚を支持する。
同性愛結婚は、社会の基盤にはなり得ない。
そもそも肉体的構造によって、同性愛の結婚は子供を産むことができないからいずれ衰退する。
同性愛に賛同する人々は「よく考えもしないで」そうやっているに過ぎない。
社会の大多数の人々が自分の子供をホモビデオを教材として上映する学校に入れたがるだろうか。
リベラル派の運動が今のような「無責任な解放」「法からの逸脱」を続けるならば、将来確実に支持者を失うことになるだろう。
日弁連のように一度裁判で決定された死刑の執行にすら反対するならば、早晩弁護士は「秩序破壊者」として市民から信用されなくなるだろう。
「法に対する敵意」は、社会全般に広がる病気である。
リベラリズムは、法を捨てることによって、自分の運動を腐らせ、支持者を失っているのである。
2006年12月28日
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