聖書に基づかない吟味


「吟味」ということを誤解している人が多い。

こちらが聖書から話をした場合に、「あなたの話を吟味」します、という場合、私の言葉が聖書に照らして正しいか調べることを意味する。

しかし、今さかんに吟味ということを行う人々は、それを聖書と無関係に行う。自分の考えで吟味する。

パウロは、預言を二三人で吟味しなさいと言った。

それは、二三人で集まって互いに自分の考えを述べ合うということではない。

「聖書に照らしてどうか議論する」ということだ。

聖書に照らして正しいならば、それ以上の吟味は不要だ。

しかし、今流行の霊的運動では、聖書がどういっているかは関係がない。

二三人集まって「霊的な吟味」というものをやる。

どうしてそういうふうに自分の考えが前面に出るかというと、「実質的に神の国を建てることを目指していないから」である。

キリスト教が、聖書抜きのキリスト教になる根源的な原因は、「自分の王国を建設する」という野心である。

歴史はこのことを証明している。

聖書から離れて、自分勝手なものを権威として立てる。

TVでコソボにある教会の様子を映していた。

その教会では、偉い牧師のミイラの遺体が宝だという。

そして、そこに手を触れるか何かするとご利益があるという。

こういう聖書に何も書いていないもの、いや、単なる人間を神の座に座らせるという行為になぜ教会が行うようになったかというと、偶像礼拝をしたいからなのだ。

聖書やキリストを権威の座から引きずりおろして、別のものを立てたがるのは、キリストの御国ではなく、自分の王国、意思、欲望というものを第一としたいからなのだ。

だから、教会が堕落すると、次第に信徒に聖書を読ませなくなる。

宗教改革の大きな貢献の一つは、ラテン語しかなく、民衆が読めなくなっていた聖書を各国語に訳したことにある。

人々が直接聖書を読めるようにしたこと。

これは重要である。

堕落した教会は、聖書ではなく、人間的権威を崇拝させようとする。

次第に、教会のおきて、クリスチャンの常識のようなものが聖書よりも上位に来るようになる。

今流行の「吟味」も教会の堕落の一種である。

 

 

2010年2月23日

 

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