なぜクリスチャン同士のトラブルを裁判で解決してはならないのか?
空手で寸止めというのがある。極真はフルコンタクトだが、他の流派はだいたい寸止めだろう。
相手の体に当たらないように止めるということだ。
クリスチャンは、寸止めができなければならないと思う。
もちろん、霊的な意味でだ。
自分に対して害を与える人間に対して徹底して復讐したり、懲らしめてやろうなどと考えるべきではない。
寸止めをする。
そして、残りを神にやってもらう。
まったく自己防衛を禁止する人もいるかもしれないが、我々の世界はサタンの世界なので、自己防衛を一切禁止すると命がいくつあっても足りない。
こちらを攻撃する相手に対して物理的・心理的に対抗し、こちらを攻めることが割りにあわないということを示す必要がある。
しかし、それ以上進んで、「あいつを懲らしてやる。徹底して叩いてやる。」となると、神の御業の領域に踏み込むことになる。
せっかく神が相手に対してなさろうとしておられることを自分がでしゃばってやると、神の御業は成就しない。
後味の悪い思いが残る結果となる。
我々は自己防衛のために自分の手でできる限りの反撃を加えるべきだ。
しかし、最後までやってはならない。自分で復讐してはならない。
神の怒りに任せるべきだ。
だから、クリスチャンの間では裁判は禁止されているのだ。
裁判によって徹底して戦うことによって、神の出番がなくなる。
問題はかえってこんがらかり、世間に対しても証しにならないことになる。
また、聖書においてクリスチャン同士の裁判が禁止されている理由は、クリスチャンこそ王だからだ。
王である人間同士が、王ではない人間に裁いてもらうというのはおかしなことではないか、とパウロは語っている。
クリスチャン同士のトラブルはクリスチャンに裁いてもらうべきだ。
ノンクリスチャンに裁いてもらうことによって、「我々は王ではない」と告白することになる。
2008年6月19日
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