学位の価値
学位とか、卒業学校とか、勤めている職場とか、こういった社会的ステータスというものは、一つのインデックス、指針である。
私を「自称神学者」と呼ぶ人々がいるが、私は自分のことを神学者と呼んだことはない。神学者であるとすればどこか神学校に属して論文を書いて授業を持つのが普通だが、そんなことしていない。自分が職業のどのカテゴリーに分類されるのかどうでもいい。
学位とか地位とかは、社会がきちんと機能し、権威を持っている場合には有効だろうが、今社会そのものに信頼性がなくなっている。
鳩山さんの右往左往を見ている人々は、もう日本には指導者がいないのか、と絶望感にひたりつつある。
完全に時代の転換点にある。
古い時代のいろんなシステムが金属疲労を起こしている。
まったく新しい価値観、理論が必要だ。
そういう場合に重要になってくるのは、学位とかポストよりも、実質だ。
PhDを持っている牧師を何人か知っているが、「だから何?」という印象しかない。
学位、卒業学校、肩書きは、人を簡潔に紹介するための道具であって、人を見抜く力のある人から見ればどうでもいいものだ。
骨董品の茶碗にいろんな説明が必要なのは、素人であって、目利きにはあまり意味はない。
自分の意見に自信のない人間は、ブランドにこだわる。
ブランドそのものが悪いと言っているのではない。
ブランドだけで生きている姿勢がおかしいと言っているのだ。
私から見て、ウェストミンスターで学位をとったかとらないかなんてどうでもいいことだ。
言っている中身だ。問題なのは。
問題の本質を見抜く力があるかどうか。それが神学者としての資質だ。
奥の奥まで深く探求する能力がなければ、学者には向いていない。
その場合、学位なんてただの就職活動と虚栄のためのツールでしかない。
2010年5月7日
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