今は終末の時代なのか?


福音派のクリスチャンは、「今は終末の時代だ」と教えられてきた。

しかし、聖書のどこにそのようなことが書いてあるだろうか。

聖書には、「終わりの日」という表現が使われている。


わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6・54)

「終わりの日」とは、「よみがえりの日」である。

では、死者はいつよみがえるのか?

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5・25)

「今」なのである。

つまり、イエスの時代である。イエスが生きておられた時代が「終わりの日」なのだ。

また、次のように言われている。

神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2・17)

さて、この「霊がすべての人に注がれ、息子や娘が預言し、青年が幻を見、老人が夢を見る」時代とはいつか。

これは旧約のヨエル書の預言であるが、これを引用したペテロは次のように述べた。

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。・・・
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。(使徒2・14-16)

つまり、「今がその時だ」と言っているのだ。

聖書を解釈するには聖書をもってしなければならない。我々の勝手な想像や思い込みによって聖書を解釈してはならない。

聖書は、「終わりの日」とは、イエスの時代、ペテロの時代のことだと述べている。

ペテロはさらに、第2の手紙の中で次のように述べた。

愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、・・・(2ペテロ3・1-3)

ペテロが「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活」することを示した目的は何か?

この手紙の読者に対して「記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるため」である。

つまり、終わりの日の兆候は、ペテロの直接の読者と関係しているというのだ。

聖書において、「終わりの日」は、紀元1世紀の人々と関係していると述べられている。

我々は、通俗の終末預言本によって、これらの記述が21世紀に生きる我々と直接的に関係していると吹き込まれてきた。

しかし、聖書は、はっきりとそうではない、それは、当時の直接の読者と関係していると述べている。

今の終末論は、歴史的背景を無視した聖書の私的解釈に基づくものであり、それは「先入観」の産物である。

このような間違った聖書解釈によってクリスチャンは完全に誤導されており、それによって我々が被っている害は甚大である。

後藤敏夫牧師(JECA キリスト教朝顔教会)が『終末を生きる神の民』(いのちのことば社)という本の中で次のように書いておられる。

『多くの福音派キリスト者に、この地上の歴史や社会の問題をあまり真剣に考えないようにさせている要因のひとつにセンセーショナルな終末論の影響があります。ノストラダムスの大予言と本質的に変わらないようなそれらの悲観主義的、運命論的な終末論は、福音派の教会に広く深く浸透しています。

その内容の是非は純粋に聖書解釈学上の問題ですが、現実的に最も問題と感じるのは、そのような終末論は宗教的な熱狂主義は生み出しても、真にこの地上の歴史と社会に責任を負ったキリスト者の福音に基づく良心的な生きかたを生み出さない、ということです。アメリカの根本主義者たちや、福音派のある人々は、社会的な問題にはかかわらなかったかつてとは違い、特定の聖書解釈による運命論的な終末論に基づいて、中東問題や政治問題をめぐって積極的に発言したり、行動するようになりました。と同時に、同じ悲観主義的な終末論によって、自分たちがなすべきことは遅すぎないうちに福音を伝えることであり、勉強も仕事もすべては伝道の手段と考える以外に、地上の事柄のうちに聖書的なビジョンを持てない人々も少なくありません。「中東で世界最終核戦争が起きるのは聖書の預言である」、あるいは「この世はどうせ滅ぶのだから、社会を良くしようとしても無駄である」というような理解は、はたして本当に、聖書的に正しいのでしょうか。』  

(後藤敏夫著 『改訂新版 終末を生きる神の民』、pp. 16-17)

まさに的確な指摘である。

現代の終末論によって、クリスチャンは運命論者になった。

「なぜこの年まで結婚しなかったのですか」とインタビュアーに訊かれた長島一茂氏が「ノストラダムスの預言をまともに信じていたから」と答えた。

終末を意識する人間は、未来を奪われ、長期的な人生設計ができなくなるのだ。

聖書は、我々の時代を終末の時代としてではなく、「輝かしい未来への発展の時代」と描いている。

クリスチャンは王であり、世界の支配者であり、サタンに勝利し、世界を福音によって変えることができると教えている。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16・20)

病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。(マタイ10・8)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(1ペテロ2・9)

私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。(1コリント6・3)

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16・18)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4・7)

我々は偽終末論を避け、勝利を信じ、輝かしい未来を切り開くために働くべきである。

 

 

2009年3月27日

 

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