ディスペンセーショナリズムはなぜ人種差別的か?


<Q>
O先生が常々「ディスペンセーショナリズムは人種差別を容認する」と批判しておられたのを記憶しています。

ディスペンセーショナリズムのどこが特に人種差別とつながるのか、よく理解できていません。ググッても、(富井さんのミレニアムを除き)神学を基本的にわかっていないヒトの書き込みが多くてどうにもなりません。
> そのあたりのことをご存知でしたら教えていただけませんでしょうか? 500年くらい前にローマ法王の仲裁でスペインとポルトガルが植民地化してよい境界線が引かれて以来、カトリックもプロテスタントも人種差別に基づく虐殺と植民地化を続けてきたわけで、それはディスペンセーショナリズムがなくても十分すぎるくらいに成り立っていたと思うのですが、神学・歴史理解として大雑把すぎるでしょうか?

<A>
ディスペンセーショナリズムは、旧新約の経綸の区別があいまいです。

そして、千年王国時代に旧約の民族的経綸が復活すると考えます。
つまり、キリストが再臨して、エルサレムの神殿から世界を統治すると考え、イスラエルが世界の中心になります。

つまり、ディスペンセーショナリズムは、ユダヤ人ラクンザ(ベン・エズラ)によって作られた民族主義的な体系であり、イエスを十字架につけたシオニストたち、そして、現代のシオニストたちと同じように、ユダヤ人中心の世界政府の建設を目標としています。

ここに、「ユダヤ人と異邦人」の人種差別的な体制、ヒエラルキーが生じます。

しかし、聖書において、旧新約の経綸は、民族的対超民族的との区別がしっかりとあり、新約時代になって、民族によって選民と非選民が分れるわけではなく、どの民族であっても、神の民、選民となれると変化しました。

ユダヤ人と異邦人の間には上下の関係はなく、すべての民族が平等になりました。

しかし、この民族・超民族という経綸の区別をしないディスペンセーショナリズムでは、ユダヤ人優越思想が残っており、この非聖書的思想によって、メシアニック・ジューの運動はその選民意識によって衰退に向かっていると聞きます。

メシアニック・ジューのユダヤ人は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを一級市民と二級市民に分ける傾向があります。

この原因は、メシアニック・ジューの大部分の背景がディスペンセーショナリズムにあり、契約神学にはないからです。

 

 

2009年8月29日

 

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