過程がすべて
聖書を基準としないことから起こることの一つは、成功と不成功の定義のずれである。
芸人で言えば、「売れる」ということ。
商売で言えば、「儲かる」ということ。
学者で言えば、「ノーベル賞など学界や世間から評価されること」
世の中はこういうようなことを成功と考える。
しかし、聖書的に言えば全部まちがい。
聖書がいう成功とは、「神の国をどれだけ進展させたか」だ。
それは、「神の国のために○○だけ貢献した」ということではない。たとえば、1億円献金したとか。
「あの人は、1億円献金したが、私は100億円献金したから成功だ」というような相対的なものではない。
イエスは、2レプタを献金箱に入れたやもめを、「すべてを捧げたのだから誰よりも多く捧げた」といわれた。
成功とは、他人と比較して決定できるようなものではなく、それぞれが与えられた分を果たすということである。
だから、自分がやった仕事、会社、商売、活動が、世間的にどう評価されることは問題ではない。
それがたとえ世間的評価では失敗に終わっても、関係ない。
もし精一杯やって失敗したならば、それは「神の決定」なのだから、神の目から見て「成功」なのだ。
野球選手になったとする、自分の力がイチローの100分の1しかなく、3年もたたないうちに戦力外通告されて廃業したとしても、それは、自分の能力や運を決定した神の決定であるから、自分的には成功なのだ。
問題は、精一杯やるかどうか。
自分の能力の限りを尽くすかどうか。
あとは無視すること。
結果はまったく関係ない。
世間は「結果がすべて」というが、聖書的には「過程がすべて」だ。
2010年7月26日
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