再生していない働き人はキリスト教からキリストを除く2
マザーテレサは、キリスト不在の宗教でも神のもとに帰ることができるというが、聖書は明確に否定している。
キリストを経由しない限り神を礼拝することはできない。
それは、幕屋礼拝においてはっきり示されている。
まず礼拝者は、入り口で犠牲の動物を殺して、それを祭壇のところで神に捧げなければならなかった。
つまり、贖いが必要だということだ。罪をもったままでは神のもとに行くことはできない。
罪を処理しなければならない。
動物犠牲は、キリストの来臨において十字架の犠牲として本体化した。
我々は、動物犠牲を捧げなくても神のもとに行くことができる。天国に入ることができる。なぜか?
犠牲がいらかなくなったからではない。
キリストを信じることがキリストを犠牲として捧げることを意味するからだ。
我々が信仰を告白するとは、「私の罪の身代わりにキリストを殺し、祭壇の上で焼いて煙にします」と同義である。
この儀式を経ずに礼拝場所である聖所や至聖所に入ることは不可能である。
しかし、マザーテレサの教えによれば、犠牲は不要だという。
罪人はそのまま祭壇を素通りして直接聖所に入り、そして至聖所に入ることができるという。
罪を処理していない人が聖所や至聖所に入ればどうなるか?
殺されるのだ。
神はあまりにも聖い。絶対的に聖い。だから、罪人の一つの罪ですら許すことができない。
それゆえ、代償が必要だった。罪人を受け入れるためには、ご自身の御子を殺し、彼に罪人のすべての罪の責任を負わせる必要があった。
マザーテレサはあたかも愛の人のような振る舞いをするが、御子を殺してまで罪人を愛してくださったという愛を伝えることを拒んだので愛の人ではありえない。
彼女は、神の愛を足蹴にした。
我々は騙されてはならない。
2008年6月17日
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