人間の幸福は副次的なものに過ぎない


子煩悩で有名なあるタレントの長女が交通事故で亡くなられた。その心痛はいかばかりだろうか。本当に気の毒に思う。

もっとも大切にしていたものを、我々は手放さねばならないことがある。

たしかに大切なものを失うことは恐ろしいことだ。子供の健康や無事を祈り、その成長を願うことは大切で尊いことである。

しかし、それがすべてではない。

人間という存在は、そのような「幸福のストーリー」で表現されるようなものではない。

むしろ、そういったかけがえのない幸福を失うことにこそ人間存在の原点があるように思える。

子煩悩な父親が自分の子供を自慢する、これ自体は祝福であり、何の間違いもない。

しかし、神が創造されたこの世界は、その次元で終わるような世界ではない。

神は、人間をいけにえとして創造された。

人間は神のために自己犠牲すべく創造された。

人間は殉教するものとして創造された。

これが「わたしのために自分の命を憎め」と言われたイエスの御言葉の意味である。

人間が人間の幸福の世界の中で自己完結することは、神の御心ではないのである。

人間が幸福を追求することそのものは間違いではない。

しかし、人間は幸福をすべて奪い去られても神に感謝すべき者として創造されたのである。

神を暴君のように思うだろうか。

しかし、それが真理であり、それこそが正しいことなのである。

なぜならば、基準は神ご自身にあるから。

この世界は、神の栄光のために存在しており、人間の幸福は副次的なものに過ぎない。人間は神の栄光のために自分の幸福を犠牲にする用意がいつもできている者として創造された。

 

 

2007年1月22日

 

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