古代日本とユダヤの密接なつながりは聖書から読み解くことができる
何度も述べているように、私は、最初日猶同祖論問題に興味がなかった。しかし、主の導きにより、この問題にかかわるようになっていろいろなことが見えてきた。
これは、非常に重要なテーマであることがわかった。
これまで教会は、離散ユダヤ人についてあまり考えてこなかった。その聖書的な意味について無関心だった。
しかし、私は、日猶問題を考えていくうちに、世界に離散したユダヤ人が、なおも契約の民としての地位を失っていないということに気づいた。
なぜならば、捕囚が「契約の刑罰」であるならば、捕囚が終わって解放の命令が出たことは、「契約の刑罰の終了」を意味しているだけであって、「契約からの追放」ではなかったからである。彼らは、帰還3部族(ユダ、ベニヤミン、レビ)とともにカナンの土地に帰ることができたのである。しかし、彼らはあえて東に向かった。なぜかは記されていない。
離散したイスラエル人たちは、離散した後でも契約の中に留まっており、契約の民だったのである。
事実、ヤコブは手紙の中において離散12部族について言及している。
「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。」(1・1)
これは明らかに離散ユダヤ人を契約の民として扱っていることを示している。
イエスも、離散ユダヤ人のことを配慮していたと思われる。
「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」(ヨハネ10・16)
この「囲いに属さないほかの羊」とは何か?
前にも述べたように、異邦人ではない。Michael P. Germano博士は次のように言う。
「『ほかの羊』という言葉は、異邦人を意味するはずがなかった。ヘブライの聖書において、・・・『羊』と呼ばれれていたのは、ヤコブの子孫以外なかったからだ。」
http://www.bibarch.com/Perspectives/1.2.htm
イエスがこの言葉を語られた当時、「羊」=主に牧会されている契約の民は、ユダヤ人のことを意味した。
だから、囲いに属さない羊とは、パレスチナの地において神殿礼拝をしている「囲いの中の羊」ではない羊、遠い土地に散っている羊、つまり、離散ユダヤ人のことを意味すると考えるべきだろう。
イエスの初臨の目的は、契約の民の救いであった。
それは、単にパレスチナの地に住むユダヤ人だけではなく、世界に離散しているユダヤ人も含まれていたのである。
その証拠に、十字架後、弟子たちがバビロン、インド、中国へと伝道したと伝えられている。
イエスも紀元70年の審判前に世界中から契約の民を集めて救うと預言された。
「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24・31)
この記事は、紀元1世紀についての預言であるから(*)、この「選びの民」は旧約のイスラエル人である。
つまり、イエスは、旧約における契約の民=イスラエルを救うと述べられたのである。
それは、単にパレスチナの土地に住むイスラエルだけではなく、全世界に散っているイスラエルをも救うということである。
ヤコブの手紙に「12部族へのあいさつ」が含まれていることから、私は、当時、全世界に住む契約の民の間には何らかの情報網があったと考える。
その情報網を使って、おそらく日本に住むユダヤ人にもイエスの福音や使徒の教えが届いたことであろう。
聖書から読み解くならば、古代日本とユダヤの関係がけっして荒唐無稽の説ではないことが分かるだろう。
(*)
「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ24・34)
ここで「時代」と訳されているギリシャ語の「ゲネア」は、辞書によると「1世代(30-33年)」を表す。
2006年3月9日
ツイート
ホーム