格差ではなく重税こそが真の問題だ
(1)
「格差社会」が攻撃の対象となっている。
そして、格差の広がりこそが、貧困の証であるという。
違う。格差と貧困とは何の関係もない。
むしろ、格差は繁栄とつながっている。
どうしてだろうか。
学校を例に取ろう。
A校では、成績が優秀であればあるほど生徒は大きな点数を優秀ではない生徒に分け与えなければならなかった。
B校では、成績が優秀であればあるほど生徒にボーナス点が加算された。
どちらの学校において格差が狭まるだろうか。
もちろん、A校である。成績優秀者とそうでない者の格差は小さくなる。
逆にB校では、成績優秀な生徒はますます頑張ってますます優秀になるから格差は生じる。
さて、A校とB校で、学力コンクールをした。
どちらの学校の成績がよいだろうか。
もちろん、B校だ。勉強を奨励する体制だからだ。
A校では、勉強すればするほど罰せられるから、成績優秀者はやる気をなくする。
全体的に成績が低下するだろう。
累進課税制度によって、格差を小さくすればするほど社会全体のやる気は奪われて、貧困化する。
我々の正常な感覚では、人間が自分のまいた種を刈り取ることは当然なのである。
仕事や勉強を怠けたために苦労しているならば、それは自分の責任であるからあきらめもつく。
しかし、頑張れば頑張るほど逆の結果になるという累進課税制度のもとで、人々の自然な感情は大きく傷ついている。
このゆがんだ平等は、経済だけではなく、法律の面でも広がっている。
犯罪者の権利が保護され、被害者の権利が損なわれている。(*)
こういった矛盾、不条理が広がることは、地下のプレートに歪みが生じて、それが、地震となって修正されるように、社会的激変という形で現れる。暴動、秩序の崩壊、テロ、革命、戦争などという形で修正が行われる。
このような状態を避けるために、我々はできるだけ「不条理」を排除すべきだ。
経済においても、政治においても、法律においても、努力した者に正当な評価を下し、悪を行った者をその行いに応じて罰する制度に変えるべきだ。
(2)
格差イコール貧困ではない。格差を悪者にしてはならない。
人々が格差を悪者にしているのは、共産主義教育の影響である。
「格差は広がってもよい。全体が底上げされて、全体的に裕福になればよい」という考えに転換しなければならない。
前の学校の例で言えば、A校からB校に変われと。
頑張る人を応援する体制に変えろと。
真の問題は、税金が高いことにある。
小泉改革は、減税せずに社会保障を取り去ったから、貧困を招いた。
これは、つまり、既得権を持つ特権階級の人々の社会保障を温存して、そうではない人々の社会保障を奪ったということを意味する。
小泉改革とは、自由競争を促進したのではなく、国家・官僚・政治家と庶民の間の社会的不平等を拡大したことにほかならない。
問題を格差に求め、社会主義を復活ないし、社会主義をさらに推し進めることは、いかなる解決にも結びつかない。
真の解決は、減税と、無用な規制の撤廃である。
(*)
死刑反対の主張は、人間の本性と大きく矛盾している。
人間は他人に対して被害を及ぼしたならば、それと同等の罰や償いをするのは当然である。
もしこの原則を否定するならば、イエス・キリストの刑死に意味はなくなるのだ。
イエス・キリストがなぜ死ななければならなかったかというと、それだけのことを人類が犯したからだ。
律法は、「目には目」「歯には歯」の原則に貫かれている。つまり、人間の行為の程度に応じて、報いを受けるという原則である。
イエス・キリストが刑死されたのは、人間が犯した罪の重さに応じてその罰を身代わりに負うためである。
10のレベルの罪を犯したら、10のレベルの刑罰を受けなければならない。
もし殺人に対して死刑を適用することを否定するならば、罪の重さと刑罰の大きさの比例関係を崩してもよいということになる。
2008年11月26日
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