コリアンが伊勢神宮の神々も朝鮮の神々と言っているぞ
伊勢神宮の神々は、物部系。物部は、紀元前に秦からやってきた徐福の子孫。だから、朝鮮とは関係ない。
それから朝鮮は、王族と一般民衆では血が異なる。
王族は、夫余族で、モンゴル系騎馬民族。この夫余の王、辰王が日本に来て天皇家を開いた(江上説)。
『隋書』は、百済王の祖先も、高句麗から出て、夫余の人達が、それに仕えた。と記している。
『旧唐書』は、「百済国は、もともとは、夫余の種族が建てた国である」と記す。
『新唐書』も、「百済は夫余の別種」と記す。
http://toron.chu.jp/synd/jpnhan/kodaigo.html
百済を建てた温祚王は高句麗の始祖、朱蒙の息子であり、朱蒙はもともと東扶余にいた。
http://asia.chu.jp/rekisi/rekisi-3ken-shinwa.html
さて、この夫余の人々は、もともとバイカル湖の辺りにおり、ユーラシア大陸を横断的に移動していた騎馬民族であるらしい。
http://get-astep-ahead.seesaa.net/article/104782900.html
Ewha Academy of Sciencesの主任教授Shin Yong-haは、夫余族の一部が西はバルカン半島、東は日本にまで移動した可能性があると述べた。
http://english.donga.com/srv/service.php3?bicode=130000&b...
解夫婁王は老いて子が無く嗣子を求めていた。ある日鯤淵(こんえん、地名)の池で、王の乗っていた馬が岩を見て立ち止まり涙を流した。王は不思議に思い、その岩を動かしてみると金色の蛙の姿をした子供がいた。王は天が私に嗣子を与えてくれたと思い、名を金蛙と名付け太子とした。
その後、宰相の阿蘭弗が「天の神が私に降臨して、『吾が子孫がいずれ国を作るだろう。この地から離れなさい。東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地がある。そこは五穀が良く実る。ここに都を遷すと良いだろう。』と言いました。」と解夫婁に進言し、王は都を迦葉原の地に遷都し国名を東扶余とした。
このようにして扶余の都から元の王である解夫婁がなくなった後、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、へ・モス)がどこからか現れて、都を開いて扶余王となった。解慕漱がなくなった後、金蛙は扶余王となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9B%99%E7%8E%8B
2010年10月8日
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