助けるべきでない者を助けるな2
聖書が教えている福祉とは、「弱者を切り捨てろ」ということではない。
それは、「働きたくない者は食べるな」(2テサロニケ3・10)ということである。
働きたくない者にまで、働いている人々のあがりをまわすわけだから、当然、働いている人々に向ける分まで不足してくる。
だから、社会主義国における財政制度は、「勤労者がバカを見る」制度なのだ。
働きたくない人間は、堕落した人間である。
人間は本来労働を愛するように創造されている。
労働を拒み、向上心を失った人間は、罪を犯すことに対する反省心がなく、かえって忠告する人々に牙をむく「豚」である。
「…豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7・6)
こういう人間は「確信的無律法主義者」である。
確信犯の生存を助ける教えは聖書の中にはない。
モーセを通じて安息日に労働してはならないと命令されておきながら、薪を拾い集めていた男が処刑されたことが記されている。
「『…主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。』
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
すると、主はモーセに言われた。『この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。』
そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。」(民数記15・31-36)
我々の常識からすれば「薪を拾ったくらいで…」と思うかもしれないが、この罪は「薪を拾う」以上のことだった。
つまり、「主のことばを侮」(民数記15・31)った罪である。
聖書において過失の罪と故意の罪の差は大きい。
過失犯は、その法制度を認めているが、確信犯は、その法制度そのものに反抗している。
確信犯とは革命家である。
人体において癌細胞を生かしておけないのと同様に、制度そのものを破壊しようとしてテロや破壊活動をする人間を、政府は許すことはできない。
これは、オウム事件を見れば分かるだろう。
労働を忌避することは罪ではあるがテロのような「犯罪」ではないから、国が処罰すべき問題ではない。しかし、労働忌避者は、積極的な援助の対象外になる。
働きたくない者に与えられる福祉とは、落穂拾いだけである。
つまり、収穫の際に取り残した「落穂」を拾うことを許すことである。
「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19・9-10)
また、収穫の実を「手で」つむことを許すことである。
「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。」(申命記23・24)
これを現代社会に適用した場合、たとえば、マクドナルドやコンビにで残ったハンバーガーやお弁当を食べることができるというようなことだろう。
イスラエルの社会は、労働する意欲があるにもかかわらず仕事がない人々や、こういった労働忌避者の生存のために、落穂拾いや畑に入って手で実を摘むことが許されていた。
我々の社会もこういった制度を法律によって作る必要がある。
今の日本のように、十羽ひとからげで、相手を吟味せずにお金を与えると、勤労者が苦しみ、怠け者が増えるということになる。
イスラエルにおいて、これらの人々と労働忌避者は明確に区別されていた。
勤労意欲のある人々の場合、彼らを教育し、自立を助ける制度として、丁稚奉公制度があった。
我々の社会も、この2者を明確に区別し、処遇にはっきりとした差をつけるべきである。
2005年10月2日
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