今のキリスト教の神学嫌いの本当の理由
<Q>
主はマーリン・キャロザース師に現れて、「わたしは、神学には興味は無い」と言われたのも事実だと信じますし、リック・ジョイナー師が「キリスト教は、単に諸真理や信念をまとめた学説ではなく、行ける神との関係です。神との正しい関係がきずかれる前に、自分のうちに諸真理や信念をうち立てても、やはり知識の木に根ざしているのです。いくらその真理が間違いのないものであったとしても、最終的には、死を実らせることになるでしょう。」と語っておられる・・・。
<A>
もしマーリン・キャロザースが本当にこんなことを語ったとしたら、彼は嘘つきです。
もしくは彼に現れたのは悪霊でしょう。
なぜならば、教会の歴史とは、神学の歴史でもあったからです。
教会は、異端との戦いの中で聖書的な教えを確立してきました。
そして、それを信条の中にまとめてきた。
もしイエスが神学に興味がないといわれたのであれば、そのイエスとは、ご自身の花嫁である教会を2000年間放置してきたということでしょう。
ペンテコステ派だけではなく、福音派にもこういう神学嫌悪症という名の自己崇拝がはびこっている。
どうして彼らが神学が嫌いかお分かりでしょうか。
「我流を通したい」からなんです。
よく学問を馬鹿にする人々がいます。
「おれは、学問なんか信じないよ。学者が何いったってそんなのは俺に関係ない。」
これは、無学者のコンプレックスの裏返し。
努力を怠って安易な道に走り、なおも自分を肯定したい場合に出す戯言です。
こういう人は勉強が嫌い。地道に努力することがそもそも苦手。
それじゃあ、そういう人に言いたい。
病気になっても医者にかかるなと。
なぜならば、医学というのは学問的な研究の積み重ねでできている。
その学問の積み重ねの途中では、いろんな学説が出てくるが、実験と観察の結果、次第に何が正しいかが明らかになってくる。
真理に向かって収斂していく。
だから、「手前勝手」というものははじかれていくんです。
そうやって真理がえり分けられて、多数の人々が正当と認められたものだけが残っていく。
こういう過程を神学も通ってきた。
だから、神学そのものを嫌うというのは、まともな精神ではありえないんですよ。
もし神学を否定したいなら、その神学をまず理解し、自分なりに意見をまとめて発表したらいい。
どこがどうおかしいのか。
聖書の教えとどこがどうおかしいのか。
今のキリスト教が「神学嫌い」になったのは、「純粋さを求め」てのことではなく、「自我を通し」聖書的ではないものを主張したいからでしょうね。
2009年12月1日
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