死後のセカンド・チャンスについて


> ラザロと金持ちの例を引用して、
> 全知全能の神様でも、地獄に行ってしまった人を救うことは出来ないのではないか?
> と話しました。
> 牧師先生は、神様の主権に属する事だから、
> 救われないと言っても、救われないと言っても、
> それは自分自身が神様になってしまう事になるから
> 実際は分からないと言っていましたが、
> 聖書に明確に記してあることに関しては、
> 「聖書にこう書いてあります」と言うことは神様の
> 主権を侵すことになるのでしょうか?

神様は、救うことができないのではなく、救わないのです。
全能ですから。
じゃあ、どうして救わないかというと、人間の死とは、「契約からの完全追放」だからです。
生前、人間は契約違反に対して、回復の手を差し伸べられます。
しかし、あまりにも頑固に回復を拒否すると、神はその手を引っ込められ、その人に肉体的死を与え、絶縁宣言をされます。
私も仕事で、翻訳後訂正を要求されることがあります。それは、契約の中に記されていて、「翻訳者は、成果物について、依頼者が要求した場合、訂正をするものとする」という義務があります。
それを拒否するならば、契約違反なので、翻訳料金は支払われません。

福音とは、「訂正要求」なのです。イエス・キリストを信じることによって「必要な訂正は完了した」ことになります。

ノンクリスチャンにとって、「死」とは、このように訂正要求に従わず、契約の履行を拒否したために起こることなのです。

クリスチャンにとって「死」とは、契約不履行のゆえの処罰ではありません。それは、契約をイエス・キリストにあって完全遵守したので次のステップ「永遠のからだで永遠に生きる」報酬の段階に入ることを意味します。

だから、死後の刑罰にある金持ちが、救われるチャンスはありません。

イエスは「死人がよみがえっても無駄だ」といわれました。

「律法と預言者(つまり、聖書)があるからそれで分かるはずだ」とも。

つまり、聖書の証言だけで人間は十分に救いに入ることができるのであって、死人の復活など超常現象を見ないと救われないということはない。

だから、我々にとって救われるに十分な道具はそろっており、それゆえ、言い逃れは絶対にできません。

ユダも救われたとか、言う意見はまったくの誤謬であり、異端ですらあります。

ただし、神の救いの方法について、我々は完全に啓示されているわけではありません。

なぜならば、たとえば、バプテスマのヨハネは、胎内にいる間に聖霊に満たされていたと書いてあります。

「福音を聞いて納得しない限り、人間は絶対に救われない」というならば、ヨハネが聖霊を受けたことをどう解釈するのか?

こういう考え方は、幼児洗礼の拒否という極端な思想に導きます。

あくまでも、神は人間を契約的に扱い、近代思想の個人主義によって人間を扱ってはおられない。

神は、家族を一人の人として、つまり、「法人」として扱っておられる。

だから、家族のメンバーに及ぶ救いは、「法人」としての救いである。

つまり、両親がクリスチャンであるならば、その家族契約の中にいる人も自動的に救われる。

ただし、その個人が進んで救いを拒否するならば滅びる、と考えることが必要だと思います。

遊女ラハブの話、看守の話はその例です。

それゆえ、我々人間が「絶対に」死後の救いはないとは言えないのではないかと思います。

ただし、聖書が啓示する範囲で考えても、ラザロと金持ちの金持ちが救われることはないでしょう。

 

 

2010年4月27日

 

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