聖書が時代背景、歴史的文脈で読まなければならないとすれば、聖書は特定読者のためにのみ記され、現代の我々にとって意味がないのではないか、という人がいる。たとえば、
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16・20)
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。(マタイ10・8)
これらの箇所は、紀元1世紀のローマ人や当時のユダヤ人の弟子たちに対してであって、我々のためではないと。
違う。
それは、聖書の中の教えは、契約的だからだ。
契約は、当時のクリスチャンと我々を結びつける絆である。
契約にあって、我々は時代を超えてすべてのクリスチャンと一体である。
紀元1世紀のクリスチャンは今天において我々とつながっている。
キリストにおいて、すべてのクリスチャンは一致しており、それゆえ、時代を超えて聖書の教えは適用できる。
ダビデがゴリアテに勝利した記事を読めばそれが、我々の信仰のためだと考えることができる。
神はイスラエルに対して、「おまえたちとおまえたちの子孫と契約を結ぶ」と言われた。契約は、継承されるのだ。
異邦人クリスチャンは、信仰によって、アブラハムの子孫である。だから、我々異邦人クリスチャンも、聖書の約束を適用していただける。
しかし、そうなると、こうたずねる人がいるかもしれない。「ならば、終末預言も我々に適用できるのではないか。契約が継承されるのであれば、終末に関する記事も我々に適用できるのではないか」と。
違う。
終末に関する記事は、一回限りである。それは、時代的に特定的である。
たとえば、紀元前6世紀のイスラエル人に対するバビロン捕囚の警告は、我々には「歴史的に」適用できない。それは一時期、一回限りのものである。しかし、この記事は我々に「教訓的に」適用できる。
その記事から、我々は、神への不従順がいかなる結果をもたらすかという教訓を学ぶ。
だから、聖書の記事は、「歴史的一回的」であると同時に「普遍的教訓的」でもあると考えるべきだ。
そして、これらは、厳密に区別しなければならない。
イエスのイスラエル終末預言は、イスラエルに対する預言であり、歴史的一回限りのものだ。
しかし、それは、契約において一体である我々に対する警告、教訓として読み取らねばならない。
「あれはまったく我々にとって無意味だ」ということにならない。
我々は三国志など歴史物を読むときに、そこで登場人物が誰かに宛てた手紙を自分に宛てた手紙として読まないのと同じように、聖書の手紙も直接的な読者に対するもの以外として読んではならない。
それは、歴史的一回的な手紙であって、我々に向けたものではない。
しかし、同時にその手紙は、後世の読者である我々にとって教訓を含むものとして読むべきだ。
三国志を読んで、我々はそこから何かを教訓として学び取る。
このような区別をしっかりとつけながら、聖書を読むべきだ。
聖書は歴史的であると同時に教訓的だ。
終末預言は歴史的文脈の中で一回限りのものとして読みつつ、同時にそこから教訓を学ぶべきだ。
ペテロが手紙において「終わりが近づいたから、身を引き締めて敬虔に歩め」と勧めているならば、こう考えるべきだ。
1.この教えは、当時の直接の読者に対するものだ。
2.しかし、この教えを現代の我々にとっての教訓とすべきだ。
と。