キリストがマグダラのマリアと結婚していたとする人々がいる。
キリストの妻は教会であり、それ以外ではない。
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5・31-32)
もしもう一人妻がいたということになれば、重婚者になる。
それでは、教会の模範にならない。
・・・キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(1ペテロ2・21)
キリストに妻がいたという人は、キリストや聖書の世界を自然的世界に還元しようとしているのである。
近代合理主義とは、「超自然の拒否」「聖なる物の世俗化」である。
奇跡や霊的世界を拒絶する狭い世界観である。
この世界観を証明することができる人など誰もいない。
「この世界において奇跡は一度も起こらない」と証明できる人など一人もいない。
なぜならば、人間の認識能力は有限だからだ。宇宙の隅々にまで行って奇跡が起こらないことを確認できる人など一人もいない。
合理主義に立つと、キリストはただの人間なので罪を犯したということになる。しかし、キリストは罪を犯されなかった。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4・15)
もしキリストが罪を犯されたならば、贖いは不可能である。
自分が罪を犯しているならば、たとえ十字架の上で死んでもそれは自分の罪の代償を払うだけだ。
他人の代償を払うには、自分に罪があってはならない。
キリストは、人間として生まれたが、アダムの遺伝子を相続していない。
神はマリアの胎内に新しい胚を作られた。
アダムの子孫ではない新しい人類を創造された。
だから、キリストはアダムの罪の中にいない。
キリストは新しい人類のアダムであり、罪を犯したことがなく、しかも、我々の罪の代償を支払ってくださった。
だから、我々は、キリスト契約を結び、その条件に従うときに、その契約の約束を受け取ることができる。
約束とは次の3つである。
1.罪責からの解放。無罪の獲得。
2.永遠の生命の獲得。
3.祝福の相続。
我々は、キリストを信じ、契約に入るときに、キリストと一体化しているキリストの花嫁なる教会に加えられる。
教会にいるかぎり、我々はキリストの体の一部である。
だから、キリストと同じ運命を受ける。つまり、罪責の除去、永遠の命と永遠の祝福である。
クリスチャンは、死なない。
クリスチャンの死は、体の切り替えである。
クリスチャンはこの肉体を脱ぎ捨てると同時に、新しい永遠の体を与えられる。体が瞬時に切り替わるのだ。
そしてある物理的に有限の場所においてキリストと昇天したクリスチャンとともに永遠に行き続ける。
この地上にいる間は、戦いである。
しかし、この肉体を離れると、永遠の安息に入る。
だが完全に戦いから解放されたわけではなく、この地上で戦うクリスチャンたちを支援するために活動している。
モーセとエリアが、キリストのもとに現れて、十字架の最後について話し合ったと聖書にある。
我々、地上に生きて戦う者たちは、この地上をサタンの国に変えようとする霊的な勢力に対して祈りと活動によって攻撃し、神の国の陣地を拡大しなければならない。
地上をすべて御国と変えるまでこの戦いは続く。
「我々は戦う必要などない。キリストが再臨してすべてやってくれる」という悪魔のささやきに屈してはならない。
このディスペンセーショナリズムのプレ・ミレという新しい教えは、200年間、クリスチャンを武装解除してきた。
クリスチャンが戦いを放棄したため、世界の悪魔化は大きく前進し、いまや完成間近だ。
我々は、形勢を逆転しなければならない。
クリスチャンをたくさん増やし、悪魔の支配に対抗して祈り、活動する勢力を作らねばならない。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。(使徒10・38)
キリストがこられたのは、「悪魔に制せられているすべての者をいや」すためである。
無数の人々が悪魔の支配下にある。
そして、罪の奴隷となり苦しんでいる。
この邪悪な支配から解放するのは、福音だけである。
世俗の政治も、経済活動も、教育も、心理カウンセリングも役に立たない。
悪魔の支配から解放するのは、キリストの御業以外にはない。
我々はキリストの体として、キリストの昇天後、この御業を受け継ぐものである。