クリスチャンの間にはびこる反近代・反科学・反学問の危険な傾向
進化論と創造論の戦いは世界観の戦いだから、科学に基づく戦いはできないというのは、間違いである。
議論というのは、相手の論理矛盾を突けば勝利できる。
だから、進化論者の土俵にいったん入って、彼らの前提に一度立てばよい。そしてその前提にたった場合に矛盾が生じるということを突けば進化論に勝てる。
神の啓示を人間が作り出した学問の中に閉じ込めることはできないというのは、かっこうはいい言い方だが、真理ではない。
学問は、神が与えた人間の労働である。人間がなすべき一つの業であり、それゆえ意味がある。
よく「神の啓示を学問などでとらえることはできない。神の御業が人間の頭で考えている枠組みには入るはずがないから。」という意見を聞く。
たしかに神の御業は無限大であり、人間の学問はそのごく一部を扱えるに過ぎない。
しかし、神学をはじめ、科学にはそれでも意味があるのだ。
なぜならば、人間は整理して理解しないと分からないから。法則としてまとめたり、様々な理論にまとまたりすることによって、神や自然を徐々に理解していく。
だから、神学を拒否することも間違いだし、創造論という科学の分野を作ることに反対することも間違いである。
こういった間違った意見は今日の教会において出やすいから気をつけよう。
なぜならば、今日の教会は反近代の流行に流されているから。
反近代、反知性、反学問は、ヒューマニズムの一つの流行である。
それが教会の中に入っている。
だから、クリスチャンは今日、白痴化する傾向にある。
「みなさん、聖書なんて勉強すると暗くなりますよ。祈ることです。」
「神学生は勉強なんてせずに、伝道し、信徒のお世話をしろ。」
「私は神学なんてどうでもいいんです。イエス・キリストだけでけっこう。」
「プレ・ミレとかポスト・ミレとか、そんな聖書を学説にまとめることなんてできませんよ。もっと深いものだから」
こういった愚かな意見がはびこっている。
目の前に大海が広がっているのに、目をそちらに向けようとせず、目先のプールで水遊びしているようなものだ。
学問を嫌う傾向を捨てて、謙虚に先人の研究から学ぶ姿勢を持たなければ、いつまでも愚かなままだ。
反近代、反科学、反学問・・・
こういったものは、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」や「ラスト・サムライ」のハリウッド映画の背後に流れる反近代思想から生まれた。
2008年3月4日
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