世界が聖書的世界観に戻るために
私の働きに反対するクリスチャンに共通するのは、「近代の世界観への批判の欠如」である。
彼らは、デカルトからカントが行った「世界観の革命」を批判できていない。
デカルトは、「懐疑から出発せよ」と言った。
「世界で頼れるものは、自分の主観しかない」と言った。「神も聖書もあてにならない。幻想かもしれない。じゃあ、確実なものは何か。それは、自分だ。今疑っている自分、これは確実に存在する。ここを認識の出発点にしよう!」と考えた。
聖書の神から認識を開始するのではなく、自己から開始する、というこの「認識論の改革」は、当時の世界観を根底からひっくり返す「革命」であった。
これ以降、創造者でない者が、創造者を裁くようになった。
オーディションの候補者が審査員の席に座って、主催者に芸をさせているような主客転倒、あべこべの世界が現われた。
主客転倒は、偶像礼拝の本質である。偶像を拝む人々は、「私が拝みたいものを拝んで何が悪いの?」と開き直る人々である。従者が平気で主人を選び、それを批判してもよいと考えること、これが偶像礼拝である。
近代の原理の一つは倒錯である。性的倒錯は、偶像礼拝という心の倒錯の現われでしかない。
「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」(ローマ1・21-28)
偶像を拝むことと、性的倒錯が密接に関連していることがおわかりだろうか。
近代における主客転倒を経験した人類は、あらゆることにおいて倒錯を楽しむようになった。
神を捨てて、滅ぶべきものを拝んでいるから、司法は、犯罪者をあわれんで、遵法者を罰するような判決を下している。
芸術は下劣なものを尊び、高貴なものを蔑んでいる。
自分の頭の中の主観的な世界が、客観的な外の世界よりも上位に置かれているから、彼らが作るものは他者が理解できないようなものである。
ヘビメタロッカーが、人食い人種のように髑髏やケバケバしい化粧をしているのは、キリスト教文明から偶像礼拝の文明に逆行したからである。
サド侯爵がフランス革命時に登場したことは偶然ではない。キリスト教の世界観が破壊され、人間が神を従えようとしたので、「神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようにな」ったのである。
文明がキリスト教から離れれば離れるほど、人々は汚れたものを愛し、高貴なものを否定するようになる。
私は、近代が行った世界観革命を正しく批判できない限り、キリスト教は本来の姿に回復できないと考える。
神学校はこのような批判をきちんと行える人間を牧師として卒業させなければならない。
我々が今、存在している世界は、神と人間の地位が転倒した異常な世界であり、そのような異常な世界に属する人々が信じ、学校やTVなどで伝えている教えを手放しに受け入れることはできない。
そして、むしろ、聖書が教える正しい世界観(*)が再び世界を支配するようになるように働かねばならない。
神と神の御言葉である聖書とを認識の出発点とすること。
これこそ我々が緊急に行わなければならない改革である。
(*)
中世ローマ・カトリックのスコラ哲学の世界観は、聖書的な世界観ではなく、ギリシア的世界観である。我々が主張するのは、宗教改革者が信じた「聖書のみ」の信仰に基づく世界観である。
2004年12月24日
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