自然石のようにならなければ神の役に立てない


「あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。」(出エジプト記20・25)

自家用ジェット機を持ち、頑強なボディガードをつけた伝道師に私は違和感を感じる。

ボディガードがついているなら、普通の飛行機で十分と思うのだが。

恐らく、彼らはハリウッドの映画俳優のようになりたいのだろう。

神の人とは、個人的な野心を捨てた人であり、自然石のような人である。

モーセは若い頃、エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルの同朋を救うために立ち上がった。しかし、思わぬ出来事が起きて挫折した。

彼が神に召された時、自分は役立たずだと思っていた。イスラエルの同朋を救うことは、自分では無理だと思っていた。

本当の神の人とは、自分の計画とはまったく無関係に召された人である。

彼にとって神の仕事とは、自分の人生の計画にまったくなかったことである。

ギデオンにしても、パウロにしても、召しは突然やってきた。

律法において、祭壇を築く時に、自然石以外用いることはできなかった。

人間の手が加えられたものでは、神の祭壇としては役立たないのだ。

自分の名誉、栄光、計画、スターになりたいという野心、…

こういった人間的なことを考えている人間が本物の伝道師であるはずがない。

本当の神の人なら、働きにつく前に、人間的な野心をすべて神によってつぶされているはずだ。

ショー化した教会や、スター化した牧師や伝道師は、人手によって切り出された石であり、神の道具にはなれない。

 

 

2005年5月9日

 

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