<O様>
「無条件の赦し」1&2を拝読致しました。
私も教会で語られている「恵み」「赦し」の概念が誤っているのではないか(もう「なんでもあり、なんでもOK」と堕落すてしまったのではないか)?とずっと疑問に思い、いや実は自分の聖書理解が間違っているのではないか?と悩んできました。
今回先生の論文を拝見して、ようやく安堵致しました。
K牧師の「悪魔に魂を売り渡しても・・・」には開いた口がふさがらない思いでしたし、このような「トンデモ」がメディアで喧伝されることに背筋が寒くなりました。
先生が引用されたエゼキエル3章の御言葉は、(私の経験では)教会説教ではスキップされるか、「しかしこれは旧約時代のお話です。今はイエス様にあって私たちは赦されていますからクリスチャンがこのように死ぬことはありません。」と「砂糖まぶし」にされるか、でした。しかし私は聖書通読の際には上記のように悩み苦しみながらここを読んで参りました。
<tomi>
「旧約時代では・・・だったが、今は・・・だ。」という分け方は、注意を要します。
なぜならば、時代が違うと、法が変わり、刑罰も変わるとは単純にはいえないからです。
ディスペンセーショナリズムは、旧約新約以外にも時代区分をし、それらの時代によって統治方法が変わり、法が変わると教えるのですが、それは、「聖書律法の無効化を目指したサタンの策略」であり、キリスト教の破壊です。
新約時代においても、あまりにも頑固に不服従を貫いたり、あまりにも邪悪な罪を犯しつづけると、教会の中でも人が死にます。
ある有名な伝道師H師は、牧師の時代に執拗に文句を言う役員に苦しめられたそうです。そのうち、その役員は突然死んでしまったといいます。
教会の中で既婚者と不倫をしていたリベラル主義の男性が腹上死した事例を聞いたことがあります。
パウロははっきりと教会時代においても、「死ぬ人」がいると述べています。
「そのために、(御体をわきまえないで聖餐にあずかる)あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11・30。括弧内筆者による)
ある人は、「これは旧約と新約の中間時代だからだ」と言いますが、そうでしょうか?
神は時代によって法や厳しさや刑罰を変えるのでしょうか。
神が旧約聖書においてイスラエルへの取り扱いを通じて啓示されたのは、「神の契約の民は、神を映し出す鏡でなければならない。それゆえ、契約の民には聖さが求められる。」ということです。
「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ11・45)
このことは、新約時代のイスラエルであるクリスチャンにも適用されます。
クリスチャンになると同時に、その人は神の訓練を受けはじめます。
それは、聖くなるため、神に似るための訓練です。
試練を通じて、私たちは聖書に記された御心をより深く知ることができるようになります。
それゆえ、クリスチャンが成長すると、「悟り」を得るようになります。
成長が進むと、私たちは、この世の人々と考え方がまったく違う人間になり、様々な非聖書的教えからの影響から解放されるようになります。
それゆえ、ある意味においてだんだん社会から浮いてくるのは避けられません。
なにせまったく思考回路が変わってくるからです。
しかし、それは、御言葉によって魂が独特な形に変えられているからであり、逸脱ではなく、成長なのです。
だから、私は、今の学校教育の「集団との調和」というものがまったくの謬説であり、悪魔の操作でしかないと考えています。
どうして神に形を変えられつつある人間が、ノンクリスチャンと調和できるでしょうか?!
「みんなと仲良くできないのは何か欠陥があるからだ」というのがデューイの教育論です。
人間は、自分と肌の合う数人の人々と助け合い、また生計を立てるだけの収入を得るために仕事上で大きな波風を立てることなく人間関係を作っていけるだけの社交性があれば十分です。
信仰の内容がまったく異なり、生活観や人生観が違う雑多な集団の中でやっていかなければならないという無益な社交性を強要される必要はまったくありません。
神の民は、聖書の教えに従った集団を形成し、その理念によって共同体を形成すべきであり、生活の一部始終を、聖書の価値観だけでやっていけるような社会を独自に構築すべきです。
そして、その社会には必ず主の祝福がありますから、経済的にも霊的にも祝福され、教育の面でも、ノンクリスチャンがうらやむような成果を上げることができるはずです。
今のように自分自身も、自分の子供も、ノンクリスチャンによって教育され、ノンクリスチャンの価値観にあわせるように強要される状態はあまりにも異常であり、過酷でもあります。
クリスチャンは敵の倫理観によって影響され、ノンクリスチャンとの区別がなくなっています。
こんなのが神の御心であるとはどうしても考えられません。
<O様>
また、確かに教会の倫理は崩壊しております。卑近ですが一例を挙げますと、愛餐会の後のゴミの片付けの際に、市の条例にしたがって分別をしておりましたら、「兄弟、そんなことしなくても、誰に迷惑がかかる訳でもなし、適当でいいんだよ。」と。「いえ、我が家ではいつもこうしていますし、この作業、私一人でできますから・・・」と言った途端その長老が青筋立てて「キミは律法主義だ!!私が良いと言っているのだから、適当で良いのだ!!とにかくさっさと片付けたまえ!」と怒鳴ってきたのです。情けなくて涙が出て困ったものでした。
ここで、この件に関連した疑問を提示させて頂きます。
例えば「山上の垂訓」などイエス様のメッセージをを拝見致しますと、新約時代の私たちに神様が要求する倫理道徳の規準は、むしろ旧約時代より遙かに厳しいのではないか?
そしてその規準は十字架で帳消しにされたのではなくて、キリストにあずかる我々はより一層の清さが求められている。
ところがその厳しい規準は「肉」の力では達成できないが故に「聖霊に満たされなさい」という勧めと、現実に求める者には御霊の注ぎが与えられるのではないか?そして成長と共にガラテヤ書5章の「実」が実り、自ずと規準に達するようになるのではないか?、と考えたのですが・・・
・・・如何でしょうか?
<tomi>
そのとおりと思います。
よく「律法主義」という言葉が誤解されているのですが、「神の戒めを細かく守ろうとすること」は律法主義ではありません。
ルカにおいて、ザカリヤは、「律法を落ち度なく守り行っていた」と賞賛されています。
教会では、「大雑把に守る人」・・・いい人、愛の人
「ちまちま守る人」・・・律法主義の人、愛のない人
というような分け方がされることが多いのですが、まったくの間違いです。
ピアノを例に取れば分かりやすいでしょう。
ピアノに関して、ピアノを大雑把に弾く人・・・すぐれたピアニスト
ピアノを小さな点までこだわって弾く人・・・劣ったピアニスト
という分け方はできませんよね。
ピアノにおいてだけではなく、他の様々なものにおいて、「細部にまで訓練が行き届いている」のがすぐれた人なのです。
何においても、達人の努力というものは、細部に及んでいます。
細部についていいかげんな人は、達人になれません。
それと同じように、律法に関して細部にまでこだわって守ろうとすることはけっして悪いことではなく、むしろ、賞賛されるべきです。
ただし、細部にこだわり、さらに高い段階に達した人は、大きな謙遜を身に付け、主に栄光を帰すということをつねに心がけないと、大きな誘惑に陥り、サタンと同じ傲慢の裁きを受けることになりますので注意が必要です。
「そんなことにこだわるのは律法主義だ!」という人々は、ユダヤ人の律法遵守を見るべきと思います。
彼らは、食事規定を厳格に守り、血が含まれているものを一切口にしません。
彼らは、現実的ではないでしょうか?彼らの細部にこだわる姿勢は、無駄な努力なのでしょうか?それは、一文にもならない文化なのでしょうか?
とんでもない。
世界の中で最も裕福な民族はユダヤ人です。
彼らはクリスチャンの民族よりも豊かです。
宗教的な掟に最もこだわる人々が最も経済的に裕福であるということをどう考えたらよいでしょうか。
細かなことにこだわるなというディスペンセーショナリズムの律法主義観は、むしろ、クリスチャンを貧困化しているのではないでしょうか?