非6日創造論者は神を誤解している
進化論は、時間のトリックである。
宇宙と地球の歴史を○○億年という人間が想像もできない長い時間に設定することによって、「これだけ長ければそういうことも起こるかもしれない」と錯覚させているだけである。
6日創造説を信じないクリスチャンもこの時間のトリックの幻惑から抜けていない。
「○○億年かかって神は創造を徐々に完成された」などとどこにも聖書に書いていない。
「神は、・・・を造られた。そして、夕があり朝があった。第○日。」
こういうパターンで記されている以上、創造を長期の御業と考えることはまったくできない。
よ〜く考えて欲しい。
進化論は、すでに述べたように、長期間に徐々に体が変化したと人々に考えさせることによって、生き残っているわけだ。
しかし、徐々に体が変化しても、一挙に体が変化しても難度は変わらない。
なぜならば、体の変化があっても、それに中枢の変化が伴わねば意味がないからだ。
たとえば、(何度もこのHPにおいて挙げたが)地蜘蛛が糸を作る機能を獲得して木の枝に巣を作る蜘蛛に変化したとする。
糸を作る機能が体に出来ただけでは何にもならない。
糸を利用して、巣を上手に木の枝にかける本能が獲得されなければ意味がない。
これは、テレビに、ただ赤外線リモコンがついただけの状態と同じである。
信号を受け取ってそれをチャンネルや音量の調整に結びつけるための機能が本体の中に備わっていなければ、リモコンだけがあっても無用の長物である。
さて、蜘蛛の体に糸を作る形態的変化を起こす遺伝子変化と、それを動かすための中枢的機能のための遺伝子変化とは、まったく別の事象である。
一方は体の遺伝子の変化であり、他方は脳の遺伝子の変化である。
この2つの領域の遺伝子が同時にピタリと相互関係するように変化しなければ、進化はどんなにマイナーなものであっても、実現しない。
今の進化論は、これが起こったと主張するのである。
糸を作る機能を偶然に獲得することだけでも奇蹟なのに、それに対応する中枢も偶然に獲得されたということをも信じさせようとしているのである。
体の遺伝子変化が、自動的に脳の遺伝子変化を誘導することはない。
たとえ、誘導することがあったとしても、何の意味もない。なぜならば、これらの変化はデジタルであるが、それによって現われる機能はアナログだからだ。
画像のデジタルデータを変化させて、それによって表現されるアナログデータを調整することは非常に難しい。
たとえば、富士山の画像にABCという文字をかぶせることを望んだとする。画像ソフトを使えば簡単だ。なぜならば、これはアナログな操作だから。
しかし、画像ソフトを使わずに、010101・・・という2進法で成り立つ画像のデータそのものを操作して、同じ事をやろうと思えば恐らく永遠にできないだろう。
AGTCという4つの塩基から成る遺伝子に偶然の変化がおきて、地蜘蛛に糸を作る機能が備わりました、というだけでも難しい。
その糸を用いて、木の枝と木の枝の間の空間に見事な巣を作る中枢の変化も偶然の塩基配列の変化によって達成されました、ということはなおさら難しい。
1つの事象にもう一つ、互いに独立な事象が1つ加わり、それが相互関連していなければある目的が達成されないならば、それが偶然に目的達成される確率は劇的に小さくなる。
このくらいのことは高校の数学でやった確率の知識で理解できる。
クリスチャンは、このようなありえない話を信じさせようとしている進化論者に付き合う必要はまったくない。
考え方を完全に切り替えるべきである。
形質のわずかな変化の積み重ねによる進化によって創造が起こった、という説は、「神は試行錯誤を必要とした」という考えを前提としている。
もしそうでなければ、なぜ神は一瞬のうちに創造を完成させなかったのだろう。
1日で何百万種類もある動植物を創造されたという記述は、「神は時間を超越している」ということを意味しているのだ。
神を「試行錯誤者」の範疇に入れることは、聖書的キリスト教の大前提である、「創造者−被造物の区別Creator-Creature distinction」の破壊である。
神を人間の尺度で評価することである。
非6日創造説は、進化論から抜けきっていない「半理性至上主義」であり、それゆえ、ひどい誤謬である。
聖書において、神の御名は「不思議」(士師記13・8)である。
つまり、人間の思いの及ばない超越者である。
人間の思考の延長線上に置こうとしても無理である。
2004年8月20日
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