「患難時代がすでに来た」「終末は過ぎ去った」というのが奇妙に思える人。
あなたは、聖書の読み方が徹底的に間違っている。
「患難時代」や「終末」の言葉の定義をまずしてください。
何によって定義しますか?
我々の常識ですか?
違うでしょう!
聖書信仰のクリスチャンならば、聖書から定義するはずです。
さて、聖書は「患難時代」や「終末」をどう定義していますか?
マタイ24章からでしょう?
私はディスペンセーショナリズムをずっと信じていたからよく知っているのですよ。
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24・19-22)
さて、これらの患難はいつ起こると書いてますか?
患難未来説の方、どうか答えてください。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
つまり、これらの「患難」は「この時代」のうちに起こるとイエスははっきりと宣言しておられますね。
どうして、これが我々の未来に起こるのですか?
答えてください!
答えられないでしょう。だって証拠聖句がまったくないんだから。
私は、ディスペンセーショナリズムの教会で洗礼を受け、その後、27歳くらいまでずっとこのシステムで育ったので、知り尽くしているんですよ。
だから、私に反論するには相当の知識と論証能力がなければならないでしょう。
ディスペンセーショナリズムの「大患難未来説」や「切迫終末論」は、聖書的根拠がまるでないんです。
「だって、もう終末が終わったなんて常識的に考えられないでしょう!今我々は終末後に生きているというんですか?」
常識は常識。聖書は聖書ですよ。
聖書は聖書によって解釈するのが聖書解釈学の基本。どの神学校でも教えている。
はっきり言いましょう。聖書は、紀元70年以降を終末後の時代、新天新地の時代と定義している。
だから、これは、我々が常識的に抱く「終末」、たとえば、ノストラダムス的な終末とはまったく異なるのです。
我々が常識的に抱く終末を聖書の述べる終末と誤解するから、こういう聖書の曲解が生じる。
自分の先入観によって聖書を読むから、自分の神学を作ってしまう。
今の教会がカルト化した根本の原因は、聖書を聖書によって解釈するのではなく、自分の固定観念を基準にして非聖書的神学を作りだしたからなのです。
私は、これまでいろんな人と会話してきたが、ことごとく先入観に支配され、その呪縛から解放されていない。
だから私は、いろんな教会から遠ざけられてきた。今もそうです。
しかし、言わねばならないものは言わねばならない。
「私がかつて騙されたように、みなさん、騙されていますよ!」と。
ディスペンセーショナリズムの体系を作ったのは、ラクンザ(ベン・エズラ)というユダヤ人イエズス会士。
ディスペンセーショナリズムは、ローマ・カトリックの体系なんです。
そしてそれを広めたサイラス・スコフィールドは、離婚と結婚を繰り返し、愛人を囲い、詐欺を働いて刑務所に収監され、イルミナティから金をもらってスコフィールド・レファレンス・バイブルを書いた。
スコフィールドバイブルによって、スコフィールドは、ディスペンセーショナリズムをアメリカの教会に徹底的に吹き込んだ。
英語ができる方は、http://www.upwardcall.net/rapture.htmlをご覧ください。
ディスペンセーショナリズムの成り立ちについて解説している。
ディスペンセーショナリズムは明らかに異端です。