必要ベースではなく能力ベースで考えるべき


なぜ事業仕分けしなければならないのか。

あまりにも無駄が多いからだ。

じゃあなぜ無駄が多い?

「必要に応じて配分する」という共産主義の理想を追い求めているからだ。

この世界は、必要だから配分されるなんてことはほとんどの場合不可能だ。

たとえば、自分の場合、本を翻訳出版したいという願いがある。しかし、財政的に不可能だ。ならばあきらめるしかない。

あきらめることができなければ借金するしかないが、借金すると奴隷になる。だから、あきらめる。

みんな大なり小なりそういう我慢をして生きている。

これが現実だ。これが神が割り当てられた現実であり、我々には全能の力はない。

我々は必要なものを得られないという我慢を重ねて生きなければならない。

それを、今の国家は、「必要」ベースでものを考えているから無理がくる。

神が創造された世界はフラストレーションの世界だ。

人間には限界を与えられた。そのフラストレーションを耐えるのが業務だ。

個人や民間の生活のベースは「能力」だ。能力にあわせてやりたいことを制御しながらやっている。

この方法を国も取らねばならない。

国も能力ベースで生活せよ。必要ベースではなく。

もう一つ、事業仕分けを見ていて思ったことは、事業というものは、市場の評価を受けなければならないということ。

市場で評価されないものはやってはならないのだ。

たとえば、もし漫画博物館を作ったとして、それが人に利用されず、採算が合わないならやってはならない。

人がそれを求めていないのにやる必要はない。

「事業が必要かどうか」は、市場が決める。

そうすれば、赤字にはならない。

市場が評価するものだけをやれ。

税金を配分する形で事業をする今の形態は、こういう「市場の裁き」がないから、土台無理なのだ。

どうしてこんな単純なことが分からないのか。

今の国の形態は、破綻する運命なのだ。

どんなに政治改革を叫んでも絶対に無理。

市場の裁きを受けずに存在できるのは、ごくわずかな分野に限られる。

警察、裁判所、軍隊その他だ。

これは国がやるべきだ。

警察が市場の評価に依存したら、警察がいない地域が出てくる。

しかし、それ以外のことは、市場の裁きに任せるべきだ。

民営化で地方の郵便局がなくなったというが、それはある程度しかたがない。

田舎に住む人は、そのような不便さを覚悟の上で住む以外にはない。

全国一律などというものは、一つの理想であって、理想を優先する今の体制がもはや砂上の楼閣化している以上、現実的になるべきだ。

宅急便などは、会社の使命として、全国一律同一料金の配送を目指しているがすばらしいことだ。

しかし、あまりにも財政的に無理があれば、過疎地への配送料が高くなることもある。それを誰が非難できるだろうか。

「必要」や「理念」ベースで考えるのは、共産主義の特徴。

「能力」ベースで考え、理念が実現できないなら我慢するというのが、人間にとって自然な姿だ。

国がこの自然な姿を超越しようとするのは、神になろうとしているからだ。

神になって、能力を超越して人々の需要にこたえようとしている。

不道徳だ。

 

 

2009年12月19日

 

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