本当の自由を学びたいなら聖書を読め


憲法の理念は主権在民というが、実際の日本は主権在国である。

法律が国の視点から作られている。

例えば、心神耗弱による責任能力の有無が刑罰に反映するシステム。

被害者から見れば相手が心神耗弱であろうが、未成年であろうが関係ない。

誰にやられようが殺されるということは同じ。

刑罰の決定方法に表れている、被害者側の視点に立たないこの国の国家主義的法体系を全部書き換える必要がある。

殺人は、その犯人の立場、状態、背景一切関係なく、死刑判決を下す。

それ以外の罪は、直接被害者の判断により、決定する。

例えば、視力を失うようなケガを負わせられたら、相手の視力を奪うことを最高刑として、それ以下の任意の判決を下せるようにする。

例えば、視力に相当する金額での支払いとか、もしくは、無かったことにすることも可能にする。

そうすれば、加害者と被害者の間でわだかまりなく解決できる。

しかし、今の法律は、国家の視点から見ているから、被害者にとって納得のいかない判決がでることがよくある。

そして、最終的に被害者は、被害を補償されないまま、傷ついたまま法廷を去る。

国だけが満足して、市民は放置。

賠償などは民事として国は関与しない立場を取る。刑事で使った証拠など民事で使えないらしい。

犯人が収監されても、被害者のために働くわけではなく、国家による教育活動のためだから、その間被害者への弁済はできない。

この国の法律は、国民不在なのだ。

国民のために国家が存在するという発想ではなく、国家のために国民が存在するという国家主義という悪魔の思想に基づいているからである。

聖書の刑罰観は、国民主権である。

裁判とは、国民同士の問題であり、国家はその仲介をするだけである。

被害者が聖書に記された最高刑の範囲の中で自由に刑罰を決定できる。

「目には目を」は「目をやられたら必ず目をやらなければならない」ということではなく、「目をやられたら、目以下の刑罰を自由に選択できる」というものである。

本当の自由について知りたいならば、聖書を読むことだ。

ヒューマニズムは、どんなに仮面をかぶっていても、ことごとく奴隷制度である。

ヒューマニズムの学問をどんなにやってもたどり着くところは空しさだけである。

学者は、はやく聖書に立ち返るべきだ。

 

 

2008年6月10日

 

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