非6日創造論者へ3
「神と被造物はまったく別物である」
これは、キリスト教と他の宗教を区別する主要な原理(Creator/creature distinction)である。
ギリシア神話も日本神話も、神と人間との間にあまり差はない。厳密に言えば、それらは「有神論」ではなく、「有霊論」である。
神とは名ばかりで、それらの実体は霊である。
聖書の話しの中に入れるとすれば、それらは神ではなく、単なる天使か悪霊でしかない。
だから、本当の意味において「神を信じる宗教」とはユダヤ教とキリスト教だけである。
これらの宗教において、神とは、超越者である。神は、世界のファンダメンタルを創造された方である。
時間と空間というものの存在の形式を定めたお方である。
彼は裁かれるべき者ではなく、裁くべき者である。
彼は唯一の基準であり、それゆえ絶対である。
神は美しいかという疑問は愚かである。美の基準は神ご自身なのである。神を美の基準とし、それに基づいて美を評価するのであるから、神を評価することなど絶対にできない。
それは、1mを定義した「1mの原器」に向かって「これは1mか?」と尋ねるようなものである。
人間は、時間と空間という存在の枠組みの中において生活しなければならないが、時間と空間は神の創造によるものなので、神はそれらにとらわれることはない。
そのことを示す個所が聖書にはたくさんある。
通常ならば年単位でかかるぶどう酒作りを、カナの婚礼において、水をぶどう酒に変える奇跡の中で一瞬にして行った。
飲んだ客によれば、それは年代もののワインだったという。
神は一瞬のうちに年代もののワインをお作りになれるのである。
神と人間はまったく違う。我々はこのことをはっきりと主張しなければならない。
進化論者のクリスチャンは、この神の真の御姿を示すことができない。
彼が信じている神とは、「時間と空間の枠組みの中でしか生きられない神」である。
人間のような知的生命体を創造するには、何億年という時間を必要としたというのである。
このように、進化論を信じるクリスチャンの決定的なミスとは、キリスト教をキリスト教たらしめているものの一つである「創造者/被造物の区別」を撤廃したことにある。
だから、彼らのキリスト教とは、実は、キリスト教ではなく、神を被造物と同列に貶める擬似キリスト教思想なのである。
ローマ・カトリックは、神の創造の前にすでに「自然秩序」があったと主張する。神の創造はその自然秩序の枠組みの中で追加された一つの領域である。
カトリックの創造論は「無からの創造」ではない。
自然秩序の中に存在するものは、神の掟の拘束を受けないという。神の法とは、神の創造の範囲に留まり、自然秩序にまでは及ばないという。
そして、神すらも自然秩序の中では、被造物と同列に並んで審判を受けるべき存在になる。
ここで、カトリックの神は「審判される側に立つ」という意味において、進化論者の神と同じである。
非6日創造論者の神論は、実のところローマ・カトリックのそれと変わらないのである。
2005年7月26日
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