聖書的二元論
ジョン・D・ガール博士によると、ダビデの星(六芒星)は、上向きの三角形と下向きの三角形からなるという。
これは、神と人との契約を表す。下向きの三角形は神を、上向きの三角形は人間を表す。神と人間がともに住むことを表現している。
さて、ここに現われている思想は重要である。この三角形によって象徴される神がお一人であるように、人間もあくまでも一人なのだ。
つまり、契約は、「一人対一人」で結ばれるのである。
これが、一夫一婦制の根拠である。契約は常に「一人対一人」である。
聖書において契約の当事者である人間はたとえそれが集団であっても一人として扱われる。そして、その一人は一つの肉体を持つと表現されている。
クリスチャンは、キリストをかしらとする新人類であり、一体である。
聖餐式はこのことを象徴している。同じ肉を食べ、同じ血を飲むことを象徴するこの儀式はクリスチャンが一体であることを表している。
このキリストの契約は、神とキリストの間に結ばれた。キリストには無数のクリスチャンが連なっている。キリストは頭であり、クリスチャンの群れ(教会)はからだである。キリストにおいて人類は一つであり、神と契約を結んだ。
この契約は、罪の贖いの契約だけではなく、永遠のいのちの契約でもある。つまり、キリストが律法ののろいを受けて死んでくださったので、キリストに連なるクリスチャンの罪も処理されているだけではなく、キリストが復活して王になったので、クリスチャンも復活して王になったのである。
しかし、ノンクリスチャンは、まだアダムの契約の中にいる。
アダムはエデンにおいて神と契約を結んだ。
アダムには彼から生まれる無数の人々と、自然界全体が連なっていた。アダムは被造物を代表して神と契約を結んだ。
だから、アダムが堕落したときに、アダムから生まれるすべての人だけではなく、自然界も堕落したのである。
これも一対一の契約である。「神対被造世界全体」の契約である。
すべての人間は、このアダムの契約の中で生まれるので、生まれながらにして、契約違反者である。それゆえ、そのままでは、永遠の滅びにいたる。
そこで鞍替えが必要なのだ。人間は、アダム族に留まっている限りのろいをうける。しかし、キリスト族になれば救われるのだ。
キリスト族に入る儀式が洗礼であり、キリスト族に入っていることを象徴する契約更新の儀式が聖餐式である。
我々は、信仰によってキリストにつながることができる。キリストが自分の罪のために十字架について死んでよみがえられた神人であり、主であることを告白するならば、キリスト族になれる。
これがいわゆる救いである。
聖書において、キリストと教会は結婚に例えられているが、これも一夫一婦制を表す。教会は一つの体であり、一人の女性である。
このように、契約の基本は「一人対一人」であることを見るときに、一夫多妻制や多夫一妻制はキリスト教的ではないことが分かる。
神が世界を創造されたときに、世界を一人とみなされた。そしてその代表としてアダムを選ばれた。
神が被造物を喜ばれるときに、それは夫が妻を喜ぶのと同じである。
それゆえ、一夫一婦制は、結婚制度だけではなく、創造の秩序をも象徴しているので重要だといえよう。
聖書は、ギリシャ思想のような存在論的二元論(霊と肉)を教えていない。しかし、契約的二元論を教えている。
光と闇、太陽と月、男と女、陽と陰、プラスとマイナス・・・
この世界にある二元要素は、神と被造物という根本的な二元要素の象徴である。
2004年7月2日
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